岸田研二インタビュー

ーー故郷の思い出はありますか?

はい。僕は静岡市出身で、城内小学校、城内中学校と呼ばれる駿府城の中にある小中学校へ通ってました。ですから、その城下町と一緒に生きた感じがしてますね。

ーーいつかまた、その城下町で暮らしたいと思われますか?

いや無いですね。でも、こちらへ出てきてからSPAC(静岡県舞台芸術センター)が出来たりして……。じゃ、出てこなくても良かったんじゃないかと(笑)。まぁ、今は静岡に戻ることは想定していないですけどね。

ーー演劇はやっぱり続けてるイメージなんですね。

そうですね。でも、毎回これが最後かなとか思う時もあるんですけど(笑)。ただ、魂を揺さぶられるような辛さや苦悩を、実際に身体を危険に晒さずに味わえるという事はとても幸せな事なんじゃないかなと思い直すとまた体験したくなるんですよね。ある種の脳内麻薬的なものが出るんでしょうね。何度でも味わいたくなるということは。

ーー25年前はどうしていましたか?

ちょうど東京に出てきた頃ですね。自由劇場っていうところに入ったぐらいです。自由劇場は入った年に解散しちゃうんですけど(笑)。そんな経験をしていたのが20か21歳くらいですね。

ーーでは逆に、25年後はどうしていると思いますか?

60歳くらいですね。どうなってるんでしょう。まぁでも、演劇なり映画なりで面白い人達と生きてたいなぁと思いますけどね。

ーー演劇以外で好きな物を何か一つ挙げるとしたらなんでしょうか?

バンドをやってまして、バンドでデビューした時期もあるんですけど、数十年ぶりにギターを持って、友達とレコーディングとかしてるんですね。音楽も創っている時は辛くて大変ですけど練習してたりスタジオで合わせて演奏してると楽しいんです。
演出家がいて作家がいてっていう演劇とは違って、全部自分たちでやらなきゃいけないので、自分がやる気にならないと更地ですよね(笑)。荒野に一人立たされていて、やっても良いし、やらなくても良いという。ある意味、自由な分だけ大変でもあるんですよね。演劇も大変ですけど、ライブなので客席からの跳ね返りがあるじゃないですか。それって幸せな事でもあるんですよ。

ーー荒野に立たされてるような辛さがあるとおっしゃいましたけど楽しいんですよね?

楽しいんですよ。演劇は、出来たり出来なかったりっていうのが、集団で創り上げて行くものなので、その分難しいです。それに、作家さんや演出家さんの意図も汲んでやるので、その分苦しいですけどその分上手く行った時の喜びも大きいんですよ。  

 

ーーでは最後の質問ですが、2011年の東日本大震災の時はどこで何をなさってましたか?

ちょうどあの時は東京のTPT(シアタープロジェクト東京)というところの、近くの稽古場にいました。皆で被災して、私は当時東京の世田谷に住んでいたんですね。で、もう少し冷静になれば良いんですけど、ああいう時に限って自宅に帰ろうとするんですよね。こんな機会だからと思って、東京の森下から皇居を通って国道246号線を抜けてというコースで、6時間くらいかけて帰ったんです。それが、映画で見るような大渋滞と人の波と不安と、そんな色々なものが渦巻いていて。一瞬にして日常生活とか風景って変わってしまうんだなぁと。そうして感じる恐ろしさと自分のやってる演劇というものとがないまぜになって、こんな時に演劇をやっていて良いのだろうかと思い悩んでいましたね。結局その舞台はやりましたけど、自分たちがやっていることが心許なく、不安になっちゃたのをすごく覚えてますね。