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塚越健一インタビュー

──自己紹介からお願いします。

塚越:ダルカラ最年長ですね、塚越健一(つかごしけんいち)です。プロフィール上では千葉県出身ですが、本籍地は東京で、生まれたのは京都です(笑)。

──いよいよダルカラの2年ぶりの再開公演ですが、どんなお気持ちですか?

塚越:これはいつものことですけど、他の客演させていただく現場と比べて一番緊張しますね。ホームだからやりやすいとか、創作する上で共通言語があるから理解が早いだろうとか言われるんですけど、僕は谷賢一の作品に携わるときが役者としての真価が問わてれいる気がして、一番緊張しますね。

──久々に谷さんの演出を受けてみて、どう感じましたか?

塚越:谷賢一は、昔に比べると丸くなった感じはしますかね。今回は客演さんや新人さんが多いというのもあるんでしょうけど、もともと演出するときに言葉を尽くすタイプだし、イメージをどうやって伝えようかという部分に心を砕く人ではあるんです。でも、その言葉の表現が柔らかくなったなあっていうのと、根気強くなったなっていうのは感じますね。それは、これまでの間で色々なタイプの役者さんたちと接してきて、更に磨かれたスキルなんだろうなぁと思います。

他の劇団員はどうかなぁ~。もちろん其々に色んな現場を踏んできた結果なんだろうけど、ダルカラの中での其々の役割みたいなもの、得意技みたいなものを磨いてきてる感じはありますね。

たとえばモモちゃん(百花)の瞬発力には相変わらず驚かされますし、ケンケン(大原)の演出家的な目というか演出家の意図を汲み取るのが一番早いところや、教え上手というか教え好きというか若い子たちに対する的確な指導は相変わらずですし。エイティ(東谷)も元々そうだったんですけど、明確に挑戦していくというか、自分の中でハードルを設けた上でより破天荒になってキッチリ挑戦していくなぁとは感じてますね。

──今回若者4人が入っていますが、彼ら達との関係は?

塚越:えっと、僕こう見えてすごく人見知りなんですね(笑)。そんなに殻を閉じているわけではないんですが、かといってそんなに取っ付き易くもないだろうし。あとは、年齢的には彼らのお父さん世代なんですね。年齢差があって話しかけ難いんでしょうね。彼らの方からも近づいて来ないですね。

──誰のメンターなんですか?

塚越:私は、大内さん担当ですね。大内さんが女性だからってこともあるかもしれませんが、何とも言えない距離感が(笑)。まぁ、まだ稽古始まって十日目くらいだというのもあるんでしょうけど。で、今回はダイエット指令が出ていて、懇親会にも参加してないんですよね。食べることが大好きなので、食べられない飲めないじゃ参加しても辛いだけかなぁと思っちゃって。でも、今考えると参加しておけばもう少し距離が近くなったかなぁと、反省してるんですけどね。これからボチボチ距離を詰めていきます(笑)。

──今回の作品は原発とか東日本大震災がテーマになっているので、2011年3月11日当時の記憶を聞かせていただけますか?

塚越:はい。僕、明確に覚えてるんです。3.11の日って。ダルカラが一度目の活動再開をする前で、もともと自分のプロデュース公演はやっていたんですが、新たに『オトナの事情≒コドモの二乗』という団体を立ち上げて自分の演出でお芝居をやった年なんですね。それで、その公演の仮チラシを梨那(中村梨那)が客演で出ていたお芝居に折り込ませてもらおうと思って、八幡山のワーサルシアターまで持っていった帰りだったんです。八幡山の駅のホームでちょうど地震に遭って、電車が止まってしまったので、八幡山から九段下まで歩いたんです(司会:えーー!)。それで九段下まで来たところで電車が動き出して乗って帰れたんですけど。当時、カクヤス(ディスカウントの酒屋チェーン)でアルバイトをしていて、次の日に出勤したら全部の棚の酒瓶が割れててグシャグシャで、片づけがすごく大変だったのを覚えているんですね。実際、大混乱で何が起こったのかも分からないし、福島のこともまだ分かっていなかったので、3.11当日の記憶はそんな感じですね。

──そのお芝居は上演されたんですか?

塚越:はい、上演しました。お芝居自体は5月か6月の公演で、そこは覚えていないんですよね(笑)。まぁ、早めに仮チラシだけでもと思って、折り込みに行ったんですね。あの頃は、電気を使うので公演自体を休止したりする団体もあったんですけど、うちの公演は無事になんとか。

──今回の作品や役について聞かせていただけますか?

塚越:まぁ、この歳になってきて、あっそうだよねっていう(笑)それなりに高い年齢のお役で。今回も自分の実年齢より高い年齢のお役をやらせていただくんですけど、毎回痛感するのが気迫というか迫力というか、年上の人たちって凄いなって思うのが、もの凄い説得力が身体に宿ってると思うんですね。それが今の自分に足りないと感じていて、それをどうやって自分に足していくのかっていうのが、実年齢より高い年齢のお役をいただいた時の毎回の課題ですね。

自分が持っていて無くしたものっていうのは、当時の元気はなくなったり身体が動かなくなったりしても、感覚の名残りであったり、記憶を辿ることでなんとか再現できたりするんですけど。まだ、自分の中に身についていないものをどう補って表現して行くのかっていうことが、やっぱり今回も課題になっているなぁっていうのを感じてますね。

──この前、客演された舞台を拝見して、塚さんは身体に説得力があるなぁと思いましたけど。

塚越:ありがとうございます(笑)。ただ今回特殊なのは、実在の生存されてる人物や、亡くなっていたとしてもまだ日が浅い人物をモデルにしたお役をやらせていただくことって、ほぼないんですね。異国でも遠い過去でもなくて、お役のモデルとなった方との距離感がとても近いんです。こんなことは初めてなのかな? そのことってやっぱり意識をしますし、そんな人たちがこの事件のような特殊な環境とか特殊な状況とかに巻き込まれて、更にその後を生きた人たちを演じるというのは、想像や記録や遠い記憶の中にしかいない人物をやらせていただく時とはやはり違っていて。リアリティというか、フィクションであってフィクションでないような距離感、想像だけではなんとか出来ない何かっていうのを僕の中で感じています。自分がそのお役に向かっていくときに、フィクションや寓話や伝説のお話をやるときとは違う、大きな負荷がかかるように思います。

もちろん、完全なフィクションだったり歴史上の昔の人物だったりのお役をやらせていただく時にも、想像という意味で自分の中に蓄える負荷がかかるんですけどね。今回の場合はそれとは違った大きな負荷がかかっています。今は、立ち向かったことのない近い距離感を持った人物を自分の中にどう具現化するか、自分なりの答えを探して稽古している最中でございます。

──こういった作品を上演して、お客様にどんな風に受け止められるかという怖さのようなものはありますか?

塚越:全ての作品がそうだと思うんですが、もちろん我々は伝えたいことがあって「こういうものを表現したい」って思って表現するんですけど、それが全部自分たちが思った通りに伝わってしまったら、たぶんその作品ってつまらないんじゃないかと僕は思うんです。あくまで、考えるきっかけであるべきで、お客様が考える余地や想像する余地を残してる作品こそが、面白い豊かな作品なのではないかと思うんですね。もちろん、演じる自分がどう考えてどう思ってどう伝えたいか、というメッセージを持って作ったとしても、最後は受け取り手に委ねられるものであって。

一斉に右向け右で同じような評価がされるような作品ではなく、賛否両論あって色んな人たちが色んなことを考えて下さることこそが、素敵なことなんじゃないかなぁ。それはどんな作品においても変わらないですし、どんな受け止められ方をしても、我々もそれを受け止めていかなければならないと思っています。

──最後に観客の方へのメッセージをお願いします。

塚越:『Caesiumberry Jam』の時にも言ったのですが、原発が云々といった思想的なものであったりとか、左翼的な演劇を創りたいと我々は思っているわけではないんですね。この大きな事件を通して、そこに関わった人たちにどんな影響を与え、どんな状況を招いたのか、あくまで人間ドラマとしてこの作品を創っています。

ですから今回の作品も原発のことだからとかフクイチのことだからととらえないで、もっと大きな群像劇として人間ドラマとして観ていただけたらいいなと思っています。そこで皆様が何を感じていただけるのか、この作品をきっかけにして皆様が何かを考えるフックになればいいなぁと思っております。

今までのダルカラにない社会問題を扱ったお芝居と言われそうですけれども、正面切ってそう銘打っていないだけで、今までも社会問題というかその問題の中で生きている人たちの人間ドラマを描いてきているんですね。ですから難しく考えないで、是非観に来ていただきたいと思います。そして、これをきっかけに何かを考えていただければなと思っております。

井上裕朗インタビュー

──自己紹介からお願いします。

井上:井上裕朗(いのうえひろお)です。

稽古初日の朝、稽古場に行く途中で初めて気付いたんですけど、谷くんと一緒にやるのは今回で6回目なんです。ダルカラでこれまでに3回、Theatre des Annalesで『ウィトゲンシュタイン』『トーキョー・スラム・エンジェルス』というのをやっていて、今回で6回目になるんですけど、同じ作家、同じ演出家と6回やるってのが初めてで。「あー……長い付き合いになったなぁ」ってしみじみ感じながら、今回の稽古に入りました(笑)。

──同じ人と6回っていうのは珍しいことなんですか?

井上:どうなんでしょうね。僕の中で「奇数回の壁」というのがあって。1回で終わっちゃってる方々みたいなのは勿論いる。1回だけじゃなくてまた一緒にやりましょうってなると、なぜか3回まではポンポンポンっと続いたりするんだけど、そこで止まっちゃう人もいる。もしかしたら3回やると飽きられるのかな(笑)。あと、5回っていうのは他にも何人かいらっしゃる。劇団に所属していたりすれば、もちろんもっと同じ人と一緒にやってると思うんですけど、僕は基本的にフリーでやっているので、呼んでもらわないと一緒にできない。そんな中で、一番多くなったのが谷くんってことですね。

──そんな記念すべき公演となりますが(笑)ダルカラ2年ぶりの再開でまた参加することになって、どんなお気持ちですか?

井上:そうですね。単純にとても嬉しいです。

どこの劇団もそうだと思うんですけど、今「劇団って何なんだろう?」っていうのを考えてる人たちがいっぱいいて。上手くいってる劇団は沢山あるけれど、劇団としてずーっと長くやっていくことはすごく大変だから、活動休止したり解散したりみたいなところもたくさんあって。谷くんは2年前の『演劇』をやる時、活動休止と言ってはいたけれど「今回のこの作品で自分にとって劇団っていうものが必要だと信じられなければ、解散にする!」っていうことも明言していたんです。

本気でそう思ってたんだと思うんです。そして、いろいろ大変ではありましたけど『演劇』という作品がいろんな面で上手くいったと言うか……いい公演になって、東京でやった後に新潟に行って、新潟の千穐楽の大打ち上げの時、煙草吸ってる谷くんに酔っ払った勢いで「またやるんでしょ?」って言ったら「うん、やる」って。もうその時から劇団を再開するってことは決めてたみたいで。僕自身も参加していたあの『演劇』という公演で「DULL-COLORED POPという劇団でしかできないことがある」ってみんなが思えたという結果なのだろうから、とても嬉しく思いますね。

あと一番最初に参加した『Caesiumberry Jam』は一回活動休止して活動再開した公演だったし、第二期の終わりの『演劇』、そして第三期の一発目のこの公演と、ダルカラにとってのターニングポイントになる公演に参加できてるのはすごく嬉しいです。

──今回若手4人がオーディションで入ってきましたが、どんな印象ですか?

井上:彼らの印象より前の話として。元々この福島三部作をやるっていうのは発表されていたし谷くんから聞いていて知ってたんですけど、それをどういう形でやるかっていうことは知らなくて。まず何より「この作品群を劇団でやるんだ」ってことがすごくびっくりもしたし……嬉しかったし……すごくいい決断をするなと思いました。そのうえ、メインキャストはみんな客演の若者だと聞いてさらにびっくり。しかも失礼ながら4人の若者は僕は知らなくて「どうやって出会った子たちなの?」と聞いたらオーディション。主役は完全にその中の1人だし、またすごい決断をするなぁと。

谷くんにとっても劇団にとっても大きなチャレンジとなるこのテーマ、そして記念すべき再開公演で、劇団員たちでなく若者たちを中心においたということに、本当にびっくりしました。谷くんらしいですけれど。

本稽古が始まる前に、一日だけ3~4時間、特に若い子たちの為のワークショップというかプレ稽古みたいなものをして、その時は正直「え、この子たち大丈夫なのかな?」って思ったりもしたんですけど(笑)。でも、本稽古入ってやってたらそんなことももう忘れました。

もちろん、若くて経験が浅いにも関わらず重大な役を振られ、谷くんから容赦ない高いハードルを突きつけられて、そりゃもう毎日大変だと思うんですけど、でももし僕が彼らだったら、と、逆の立場で考えてみたら、もうとにかく、羨ましいですよね。チャンスに恵まれて、環境に恵まれて羨ましい。いきなりあんな大きな役をやれて、先輩たちに囲まれて。羨ましいです。

そして僕は、とにかく若い俳優さんが好きで……若い人たちは、変な癖やこりかたまった自分の演技論とか演技法とかない分、素直だし自由だし真っ直ぐで、見てると、もちろん決して上手じゃないけど「すごくいいな!」と思う瞬間がたくさんある。僕自身、影響をものすごく受けてます。頼もしいですね。

──今回の作品は東日本大震災が背景にありますが、2011年3月11日の記憶はありますか?

井上:僕はその当時、箱庭円舞曲という劇団に所属していました。

3月11日の夜に、新宿の劇場で、劇団員のひとりが出演する公演が幕を開けることになっていたんです。その初日を劇団員のみんなで観に行こう、どうせなら早くから集まってミーティングをしようということで、昼間から新宿にあるファミリーレストランで集まっていたんです。僕も入れて3人だったかな。会議というか作業をしていた最中に、あの大きな地震を経験しました。ちょうど時間的に、その公演のゲネプロをやっているだろう時間帯だったからとても心配になって、みんなでその劇場まで行きました。劇場はサンモールだったんですけど、サンモールはゲネの直前、サンモールスタジオは本番中だったらしく、劇場の近くの公園に、俳優・スタッフさん・そしてお客さんが全員避難して集まっていて。そしてしばらくしてみんなで劇場に戻り、いろんな話をしました。なので僕の中では、あの地震と演劇関係者、そして劇場とかっていうことが繋がっていて。今でもよく、あのファミリーレストランと、劇場の横の公園のことを思い出します。

──お家には普通に帰れたんですか?

井上:家がちょっと遠いところにあるので、最終的にその日は帰りませんでした。夜、友達とタイ料理を食べていて、そのレストランでみたテレビのニュースで、思った以上に大変な事態であることを知りました。仙台空港の映像だったのをよく覚えています。

──周りの人で東北出身の方はいらっしゃいましたか?

井上:僕自身は出身が東京だし、家族の出身は関西方面で親戚もそっちに固まっているし、北の方にあまり縁はないのですが、箱庭円舞曲の主宰の古川貴義くんが福島出身だったので、彼を通じて、間接的にいろいろと感じることがありました。

──今回の作品やご自身が演じる役について今の思いを聞かせてください。

井上:すごく正直に言うと、今回のような、自分たちにとって近しいのだけれど、でも自分が最たる当事者ではないという題材を、演劇という形で作品を作って発表するということが、どういうことなのか。僕の中で、あんまり答えが出せていないんです。

以前、子供を虐待する父親の役をやったことがあるんですね。僕自身は親から虐待されて育ったわけでもない。親ではないから実際自分自身が虐待した経験もない。でも、与えられたその役を、自分なりに一生懸命に演じたつもりでした。その作品を観たとあるお客さんの中に、実際に親から虐待された経験のある方がいらっしゃったんです。その方は、大人になるにつれてようやく、その昔の辛い経験から立ち直りつつあった。でもこの芝居を観たことですごくいろんなことを思い出させられた。描かれ方にも腹が立った。腑が煮えくり返る思いがした。そういって、涙を浮かべて怒りをぶつけられたことがあったんです。

僕自身も、もちろん作家も演出家もその他の共演者たちも、もちろん誠実にその題材と向かい合って作ったつもりではありました。でもそのとき初めて、当事者の方々を傷つけてしまう危険性について、本当の意味で考えさせられました。誰かを傷つけてしまうかもしれない、誰かを怒らせてしまうかもしれない。そのことに思いを馳せ、でもそのことを必要以上に怖がらず、そしてそのことを引き受ける覚悟をもって作品を作らなければいけない。今回もそのことを強く考えています。

どんなに頑張っても、本当の意味での当事者にはなれない。もちろん一生懸命想像をして、役が抱えている感情や思考を掴み取ろうとがんばります。でもどこまで頑張っても、わかった気になるってことだけは絶対したくないなと思います。だって、絶対にわかるわけないですから。わかろうとしなきゃいけないんだけど、でも絶対にわからない。わかった気にならない。それが僕にとって大切にしていることですね。

──観ている人の傷を抉ってしまうことが今回の作品に限らずあると思いますが、それは演じていて怖かったりしますか?

井上:うーん。難しいですね。でも今回は、谷くんのことを信頼して、預けています。そして稽古の中で、僕の感じたことをすべて彼にぶつけて、僕自身もきちんと引き受ける覚悟をもてるように、いろいろと議論を重ねて作っています。

でもいわきで初日を迎えたときに、いま僕たちはこういう風に考えているけれど、それでもやっぱりすごく傷ついたとか、怒りを感じたっていう人も出てくるだろうなと思います。それはもちろん覚悟しなければと思っています。何よりそのことに対して覚悟を持っているのは、僕なんかよりも、自分で書いて演出している谷くんだと思いますが。

福島で開幕させるっていうことが、彼にとってはすごく大事なことなんだろうなと思ってます。

──井上さんが演じる役についても差し支えない範囲で聞かせてください。

井上:ある日別件で谷くんと飲んでたときに、そのときはもう出演が決まっていて、自分がどんな役をやるのかちょっと聞いてみたんです。題材的に、ものすごく説明をするような科学者とか、演説をぶちかます政治家とか、そんな役なのかなあと予想をしていて。そしたら「うーん、これがねぇ、多分だけど、ほぼ間違いなく今までやったことないタイプの役だと思うよ」と言われまして。そのあと気にしないようにしようと思っていたんだけど、やっぱり気になっていろいろと予想をしていました。第一候補は「動物」だったんです。(笑)

──(笑)

井上:ダルカラは、毎公演必ず動物が出てくる、自称「動物劇団」ですから。例えば福島に生を受けたある動物が、1961年の福島をみて、第二部の時代でも同じ土地をみて、第三部でも同じ土地をみて……なんていう役柄とかを予想してみたり。ちなみに第二候補はおばちゃんとか(笑) でもまさかまさかの○○(井上さんの役)でした。

稽古が始まる前に、何人かで福島に田植えに行ったんです。すごく楽しくて、東京に帰ったあとまた飲みに行きました。そうしたら「井上くん、今日家来ない? 稽古が始まる前にちょっと台本読んでみてほしいんだけど」と言うので、彼の家に行って、さらにお酒を飲みながら誰より先に、今回の作品の台本を、まだ途中までだったんですけど、読んだんですね。まずは、とりあえず自分の役がどれかとかを考えず、客観的に読もうと思って読みました。

でも最初のページに、登場人物の紹介が書いてあり。その中にひとり、驚きの登場人物がいて。結局はそれが、今回僕がやる役だったんですが(笑)

自分の役がどれかは気にしないように読もうと思ってはいたものの、読んでるうちに、あ、これは誰々の役だなあと、一発でわかる役が結構あって。たとえば、古屋くん(古屋隆太さん)の役なんかは、読んだ瞬間に、というより、あらすじを読んだ瞬間にわかっていたし。若者の4人もこの4人だなというのはわかったし。東谷(東谷英人さん)の役も一発でわかり、ケンケン(大原研二さん)の役もすぐわかって。なんていうふうに消去法で消していったら、結局自分の役はふたつぐらいに絞られて。おそるおそる「まさか◯◯の役?」って聞いたら「そうだよ」って。(笑) あまりにも初めてやるタイプの役で、やらなきゃいけないことが多すぎて、それを今はひとつひとつクリアしていこうと頑張ってるところです。

──方言も初めてだと思いますが、いかがですか?

井上:これが、楽しいんですよね。方言をしゃべることによって、自分と役との間に、適度な距離ができるというか。昔からずっと方言の芝居、やってみたかったんです。方言というフィルターがかかることによって、違う自分に出会えるんじゃないか、違う自分が出せるんじゃないか、という期待があって。稽古をしてみて、実際そういうところがあるなあと思っています。

たとえば今回の役柄は本当に初めてやるタイプの役なので、標準語でやれと言われていたら、もしかしたら恥ずかしくてなかなかできなかったんじゃないかと思う。方言というフィルターが一個入ったおかげで、ちょっと助かっています。楽しいです。自分にとっては、意外なほど、大きなハードルではなかったですね。むしろ助けになっています。

──では最後に観客の方へのメッセージをお願いします。

井上:たしか平田オリザさんだったと思うんですけど、違ってたらごめんなさい、本の中で、自分の仕事は、自分が世の中をどのように見ているか、自分から見えている世界を提示する仕事だ、みたいなことを書いていたんです。

今回の作品は、まさにそうだなと思います。東日本大震災と原発事故、その起こってしまった「現実」を、どんな風に捉えていくのか。いろんなジャンルの人たちが、それぞれの見地から、たとえば学者の方や報道に関わっている方々も、それぞれの切り口で分析や考察をしていくんだと思うんですけれど、今回は「演劇」という形を通じて、谷くんがどのような角度からこの現実を見ているか、考えていこうとしているか、その切り口の提示をするものになるのだろうと思っています。僕は俳優として、その乗り物に同乗していくわけですけれども。僕たち俳優と、客席にいるお客さんたちが、劇場という同じ空間で同じ時間を過ごす中で、僕たちもお客さんたちもそれぞれが、自分たちの切り口や見ている角度のようなものがほんの少し変わったりするということが、この作品を通じて起こるといいなあと思っています。僕は、普段あまりお客さんの感想に興味がないというか、それは観た方の自由だと思って気にしないのですが、今回はとてもそれを気になるだろうと思うし、とても興味深いというか、それが楽しみです。ぜひいろんな感想を聞かせてください。

古屋隆太インタビュー

  • ──自己紹介からお願いします。

古屋:古屋隆太(ふるやりゅうた)です。昭和46年産まれの46歳です。今までは青年団というところで、現代口語演劇と言われているスタイルの演劇をずーっとやってきております。

──谷さんは、平田オリザさんが本などでやっちゃいけないということを自分のお芝居でやっている、とよく言うんですけど。

古屋:そうですよねー、そうですね、感じますね。

──今回の作品では?

古屋:今回の作品でも彼自身が言っているポイントがあって、ある汽車のなかで初対面の人間が会話を始めるんですけど。まず平田オリザの場合は、人種にもよるんですけど、日本人の場合はあんまり見知らぬ人に汽車のボックス席で向かいにいるとしても、物理的には可能ですけど精神的にというか……実際話しかけますか? と。大方の日本人は話しかけないらしいですね。

アメリカ人は話しかける人が多い、イギリス人はかなり話しかけない人が多いっていうのがあって、そこからワークショップで実験を始めるんですよね。じゃあ何があれば、話しかけるでしょうか? 例えば僕が話しかけなきゃいけないとして、向かいにお腹の大きい妊婦さんがいるとする。そうすると、けっこう話しかけやすくなるんですよ。あるいは、二人しかいないとして、ものすごく変なものが、隣に落ちている。それで僕がついつい気にしていると、こっち(向かい側の人)も自分のものではないですと言いたくなる。そういう、いわゆる「人間って環境に喋らされるよね」っていう発見をしてきている人なんですね。劇作家として。

それって、そもそもは「ご旅行ですか?」というセリフを俳優に喋らせるときに、どうもうまく言えない俳優が多いって問題意識を持ったかららしいです。何でだろうというと「ご旅行ですか?」と実際に言った経験がなければ、それはやっぱり言いにくいですよね。言語というか言葉として。そこからスタートしたオリザさんのワークショップがあるんですけど。それに比べて谷くんは、今回だと僕の役は、初対面のたかしくんに「いいもんだね、故郷があるというのは」って、話しかけるんですよ、いきなり。 だから、その平田オリザの提唱する現代口語演劇の土俵でやってきたものとしては、ものすごくハードルが高いです。

──台本を見たときに「おっ」と戸惑うのですか?

古屋:戸惑うというか、それは未熟な劇作家がそういうことを分からずに書いちゃっているのではなく、谷くんが確信的にそのシーンを書いていることが分かるので「おーっ、そういうふうに来るか」と。そうすると僕も現代口語演劇俳優気取りで「何かこれは言いにくいよね」とか言わずに、もうちょっと違う感じで初日から稽古に臨まないとなって思いましたね。

──青年団と全然違うダルカラという劇団に参加してみて、いまどういう印象ですか? お稽古が始まって9日目ぐらいだと思うのですが……。

古屋:うーん何ていうか、玉手箱みたいな。もうフル! MAX! を超えて、「こんだけ演劇っておもしろいこと出来るんだよ」って。玉手箱というか大風呂敷というか、そういう感じなんで……まあ実現は簡単ではないんですけど、きっと僕らはそれを実現させるでしょうし、相当おもしろい。老若男女難しいこと考えずに楽しめる作品になるなと思って、不安に慄きながらも希望がある。ワクワクするみたいな……心境で稽古に臨んでいます。

──今回の作品は東日本大震災が背景にありますが、2011年3月11日は何をしていましたか?

古屋:確かあの時確定申告が済んでなくて、女房と僕と当時4歳か5歳だった息子と三人で所沢(埼玉県)の税務署に車で行って、女房が税務署で作業をやっている間、税務署の向かいにある広ーい航空記念公園にいたんですよ。航空発祥の地と言われている公園なんですけど、そこに子どもの広場みたいな遊具がいっぱいある一角があって、そこの砂場にいたんです。だから、周りは何にもない。下はやわらかい。相当安全な場所にいたんですね。まあラッキーといえばラッキーだったんですけど。

その時に印象に残ったことがあって、すっごい自分が脳の異常で目眩がしてしまったと思うぐらい、ぐらぐらして倒れそうになったんですよ。これは地震だな、すごいの来たと思って、その砂場で子どもを遊ばせている若いママさんに「今の地震ですよね」と言ったらシカトされたんですよ(笑)。いやー、こんなにひどいのと思って……このディスコミュニケーションというか若い人だったんですけどね。そんなにシャイというか何ていうか、他人と話、出来ねえんだと思って。あれだけ揺れてその人も恐れ慄いただろうに、それでも知らないおっさんに声をかけられて警戒するっていう。「その警戒間違っているでしょう」と。ほんと、いざという時に助け合えないよなと思ってショックでしたね。それで家に帰ってもそんなにひどいことになっていなくて、震源はどこなんだろうって思ってたら、東北、福島だと聞いて、びっくりしましたね。福島ででっかいのは初めて聞いたので。

──家に帰るときは、普通に帰れたのですか?

古屋:そうですね、車で15分ぐらいの距離ですし、特に混乱はなかったですね所沢市は。ただやっぱり、東京が混乱しているっていうのは聞いていましたし、これは相当だなと。まぁ、親戚とかが東北にいたりはしないので、そういう心配は無かったんですけど。

──その後のお仕事に影響はありましたか?

古屋:その後、青年団の舞台があって、それをやるかどうか? というのを、劇団として答えを出すのに割と時間をかけましたね。電力をとても使うことですし、お客さんあっての演劇ですから。やっていいのかどうか? ということと、やったところで成立するのか? ということと。

特にその時はオムニバスというか、4本ぐらいの短編・中編をまとめてやる予定だったんです。それで僕が担当していた中編は関東大震災のことが出てくる内容だったんですね。僕は大杉栄(大正時代の社会運動家・アナキスト)の役で。大杉栄って諸説ありますけど、関東大震災の混乱で甘粕さん(軍人)に虐殺されたと言われているわけじゃないですか。その関東大震災の1か月ぐらい前からの連続してない4日間を、4場構成でやる舞台で、その翌日に関東大震災があったっていう設定だったんで、まあ、ちょっと考えましたね。

──今年公開された映画「息衝く」にも出演されていますね。

古屋:あれも青森県六ヶ所村を題材として扱っている映画で、参加させて頂きましたね。10年ぐらい温めて制作された映画なんですけど、5年ぐらい前かな? いきなり声をかけていただいて「ぜひ古屋さんに」って。難しい題材で難しい役どころだったんですけど、いろいろ僕の舞台を観て下さって、先ほど話をした大杉栄の役を観て「あっ、この人なら芯の強さを体現してくれるかな?」と思ってくださったみたいで、若い政治家の役でした。

ちなみに原発関連で言うと、ある撮影もしてますね。それもなぜか声がかかって、まだ事故から日が浅くてガイガーカウンター置けば「ピー、ピー」って鳴っていた時にみんなで現地に乗り込んでロケをして。仙台が宿だったんですけど、そこから毎回2時間かけて撮りにいきましたね。

おだか(南相馬市小高区)でしたかね。その時まだ避難解除がされてないところで、ただ昼間だけは何かを取りに戻るとかはいいよ。という状態で……そこの実話として、駅前の花壇に一人で花を植えているおばあさんがいたらしくて、その方と会ってショックを受けて、「自分に何ができるんだろう……」って黄昏ている記者の役だったんです。

撮影が終わったら着ていたものは全部、靴から何から「もうこれは処分しなくてはいけないんで」って袋に入れられて。その後、仙台の健康ランドみたいなところにみんなで行って、新幹線で帰ってきましたね。

──今回の役は、これまでとは少し違う感じですか?

古屋:そうですね。映画『息衝く』でやった役は、政策として廃炉をっていう方向で与党に働きかけてくれって党の上層部に訴える青年の役でした。僕自身も、息子がいますし、相当パニックになりつつも、やっぱり、原発……は恐ろしいものだと。絶対にこのまま原発依存は続くべきではないと思いましたし、今でもそういう想いの方が強いですね。

でも今回はお話いただいた時に、「電車の中で青年と会う夏目漱石の三四郎に出てくる先生のような」、「ファウストのメフィストのような」、人間の欲望に付け込んで誘惑するような、そういう役って聞いて、そっちかぁ……真逆の役だなぁと思って。それで僕なりに何冊か参考になりそうな本を読んで、いわゆる悪役としてではなく、その人の立場とかその人の想い……ってものが台本を渡された時に理解出来るようにっていう準備はしてたんです。

でもやっぱり今日稽古して、新しくもらった台本でやる時に、個人的な深層心理の意識が出ちゃって、ちょっとこう悲壮的なというか……つらそうなセリフ回しになってしまって、もうちょっとあっけらかんと言った方が良いですねって言われたんですよね。だからやっぱり、そういうところでどうしても嘘をつけないというか、人間こうなるんだなぁと思って、役者古屋まだまだこれからだなって思いましたね。難しさは感じてますね。

──谷さんとしては、結構前から古屋さんには出てもらいたいと思ってらっしゃったってことですよね。

古屋:一回、あうるすぽっとプロデュースの「TUSK TUSK」ってやつでご一緒させていただいて、その時……僕は、谷君のことをいいなぁって思って、向こうはどう思ってたかわかんないんですけど(笑)。それから1年後か2年後かに、彼も人たらしというか(笑)、うまーく誘われて「上手い役者だけを集めてやるワークショップ」とかいうタイトルでお誘いが来たんですよ。そんな誘われ方したら断れないじゃないですか。「じゃあ……行っちゃおうか?」ってなっちゃうじゃないですか(笑)。そこでもやっぱり楽しくて、これはいつか何かまた一緒にやることになりそうだなぁって僕も期待してました。

オファーをいただいた時、とっても嬉しかったんですが、その時にもう既にこの時期に別の仕事を決めてたんですよ。だけど、谷君とは、もう何か話が来たらやるって決めてたし。それに役柄が役柄で、その漱石の三四郎の先生のような、ファウストのメフィストのようなって聞いたら、こーれやりてぇなぁと思って。
すーごい時間をかけて、誠意を込めて謝罪して、ごめんなさいちょっとこれはほんとルール違反というか、自分としても決めているルールには反するんだけれども、先に決めたにも関わらず降ろしてくださいと。僕やりたいのがあってと。それでこっちを決めた次第ですね。

──ダルカラファンとしては古屋さんが出るっていうのはすごく楽しみです。谷さんが連れてくるベテラン俳優陣は必ず凄いことをして下さるので。

古屋:そうですか。なんでしょう、このプレッシャー(笑)。
そのご期待にしっかり沿えるといいなというか、その期待を超えるぐらいの「超えるぞー!」ぐらいの気持ちで頑張ります。

百花亜希インタビュー

──自己紹介からお願いします。

百花:ダルカラ劇団員の百花亜希(ももかあき)です。兵庫県神戸市出身です。

──ダルカラの二年ぶりの再開公演についてどんなお気持ちですか?

百花:う~ん。まぁ楽しいですね。ダルカラの作品の作り方というか、私がダルカラに関わるようになってから、谷もそうだし他のメンバーも多少なりとも変わっていって。そういう意味ではすごい変化は感じるし、また2年ぐらいブランクがあってまた再開するってなって、もちろん自分が変わったせいもあるけんちょも、いい意味ですごく楽しいです。

──ご自身で何か変わった感じはあるんですか?

百花:自分ではありますね。何が変わったって具体的に言うとあれだけども(笑)。俳優として休止中の2年の間に何か習得してやるぞとかそういう目標は別になかったんですけど。ただ自分が俳優をやっていく上でいつも変わらないものというか変われないものというか、もっと色々武器を手に出来たらいいなってすごく思ってっから、どれか一個って言葉にするってよりかはダルカラの劇団員として、この2年の間にしっかり成長出来てたらいいなってすごく思いますかね。劇団休止中にもケンケン(大原)、東谷さんとは一緒に演ったこともあるんですけど、ちょうど2年空いてみんなとも久々に演るんでね。

何が変わったって言ったらわかんねぇけんども(笑)……そうですね。何が変わったんでしょうね(笑)。人間的にというか俳優としてかな? もうちょっとリラックスを大事にしてるっていうかフラット? そこを大事にしているところはあるかもしんねえなっと思いますね。

私どっちかって言うと緊張しいなんで、そういうのが嫌なんですけど、そういう自分も認めてそれもしょうが無えなっと思いながらなるべく普段の状態と変わらないで演れたらいいなっと思ってて。自分と戦いながら……と言ったら格好良すぎるけども、昔よりかは肩の力が抜けているんじゃないかな? と思います。

──谷さんとか他の劇団員は変わった印象はありますか?

百花:あー、谷は変わったんじゃないかなと思いますね。

──穏やかになったとか?

百花:ある意味では丸くなった感じはしますかね。うんうん。他の劇団員はどうかな? そんなに変わったようには見えないかな。もちろん、ある部分ではみんな色々やってきてたから成長してるんだろうなと思うんですけど、なんかスタンス的にはそんなに変わったっていう感じはなくてやっぱ、一番は谷かな。

丸くなったっていうか演出家として成長した気がしますね。俳優との付き合い方とか。俳優に耳を傾けるというか、人として大人になったっていうか。
いや、わかんねぇけんども……そんな気はしますかね。

──今回、若者4人がオーディションで入っていますがその方たちの印象は?

百花:まだそんなに深く付き合ってはないんですけど、でもみんな役にはあってるかなっていう感じはしますね。各々の個性だったりお芝居の感じだったりとか居方とかで、みんなすごい一生懸命やってるし真っ直ぐだし、初参加なんですけどダルカラのこと好きなのかなって思います。

もちろん、各々に課題はあるんだっけんども頑張ってやろうとしているし、好感が持てるしある部分尊敬もしていますね。

──今回メンター制度があるって話ですけど。

百花:はい。私、丸山担当です。

──先日、丸山さんにインタビューした時に「百花さんに似ている部分があるのかも」って伺うと「そうかもしれないです」とおっしゃっていたのですが、百花さんから見てどうですか?

百花:そうですね〜丸山見てると、そうなっちゃう気持ちがわかるなって部分はあります。でも、私もお年寄りになってそれじゃいけねえなって部分もすごくあって、それこそ私が芝居はじめた頃、私にとっての月影先生である「木野花」さんと一緒に作品を作ってた時があって、その時「あんたは心が閉じてんだよ」って言われて、若い時はわかんなかったんですけども何年か経ってすごくその意味が分かるっていうか感じる気がするの。

丸山見でっと、谷が稽古中に言ってたことだと思うんですけど「謙虚なところがあるのはいいけども……」みたいな指摘とかね。まだ若いし先輩の人たちと一緒にやるから緊張するし「私なんかまだまだ出来てねぇ」みたいに自分を下にしちゃうとこがあって、そういうところは私と似てるんですけど、それはそれで事実として認めてもやる。そういう自分もひっくるめて観せる。恥をかく。ってとこまで行かないと違うんでねぇかなっと「なりたいと思ってる自分と実際の自分が違ったとしても、今の自分を認めた上で殻に閉じこもらない様にしないと何も生まれない」というような話をした気がします。

ほんとは苦手なんですよ。私はどちらかってぇと後輩の立場でいる方が楽だから……。面倒見てほしいタイプであんまり見本みせる的なことは好きじゃないんですけども、しょうがねえ! じゃないですけど、ある意味自分が後輩でいたがってる自分に言い聞かせる。それをすることで自分にもプラスになるいい機会だからっと思って頑張ってます(笑)。

──今回の作品は原発とか東日本大震災がテーマになっているので、2011年3月11日当時の記憶を聞かせていただけますか?

百花:その日は……私、そんなに明確には覚えてなくて……なんか消したいと思ってんのかわかんないんですけど。家にいたことは家にいて、すごい地震でそこからの記憶があんまなくて。普通、いい大人だからあると思うんですけども、私なくて……家にいたことは覚えてんですけども。

あと、稽古中だったってことも覚えてて……。私、阪神淡路大震災の時は兵庫県にはいなかったんですよ。引越しててそん時は大阪にいて……すげえ揺れを感じて、大阪はほぼ地震のないとこだったんであんな大きなことになってると思わなくて。どっちかっていうとそっちの方を繊細に覚えてる。直撃ではなかったけど東京でそういうことがあって、でもなんだろう。

私、神様って都合良い時にいるって思ってるタイプで、普段はクリスチャンでもないし他の何か信じてるわけでもないんですけど、何なんだろ! って思って。なんか本当に悪くて人殺しするような人とかに天災があって死んじゃうみたいのだったら、ある意味天罰的な感じでしょうが無いかなと思うんですけど。何の罪もない人がああいう天災にあう。最初は津波、その後は原発の問題が出てきて。関西の時はやっぱり近かったからおばあちゃん家のこととか近所で色々あったんですけど、3・11の時は身近っていう意味では何もなかったんですよ。

なんだろう? 関西の時より大人になってたから、人間が立ち向かえないってことに対しての苛立ちというか絶望感があって、ずっと泣いてたなって記憶。特にピンコンピンコンっていう音(緊急地震速報)がすごく嫌いで、人間って無力だなって。
でも、色々知りたいからテレビでニュースとかをとにかく見てて、地震のこととか今の状況が放送される度にずっと泣いてました。

稽古中で本番を控えてたんですけど、もしかしたら演目を変えたのかな? はっきり覚えてないんですけど。でも、やるやらないって話も出てて、私もこんな時に演劇なんか演ってていいんだろうかってすごく思ってた時期でしたね。それでとにかくずっと泣いてました。結局、本番は演ることは演ったんですけど、あんまり記憶に残ってないですね。

──話変わりますが、先日田植えをされたと聞きましたが?

百花:やった。やった。楽しがった〜。
神戸ってなんかきらびやかなイメージがありますけんども、私が住んでたとこはどっちかっていうと自然の多いところだったから田植えの経験もあったんです。今回多分小学校以来の田植えだったかな? 靴下で入って行ったんですけど、最初は思ってたより深くって足取られるし大変だったんです。
でも指導して下さるおじさんの真似をしていたらすごい楽しくて、結構手際も良くてこれは筋トレになるなっと思って。内転筋意識しながら一人でやってたら、すげえ上手だって言われて「あ、嬉しいな」っと思って楽しかったです。

──その時のメンバーは?

百花:谷、東谷、内田、宮地、井上さん、私の6人です。

──みなさん、真面目にやってましたか?

百花:谷は最初やらなかったんですけど途中からはやりだしたみたいな(笑)

──今回の作品や役について聞かせていただけますか?

百花:みんな喋ってることかもしれないんですけども、青春の物語。今回オーディションでよんだ4人だけが主役って訳ではないんですが、主軸は若い男の子でキラキラ! 青春物語! みたいな。福島の原発扱ってて何が繋がるねんって思うかもしれないんだけど、本当にキラキラしたとこもあるし。

私が初見で稽古した時に、書かれているのは1961年の話なんだけども「今の時代を生きてるからこそ」「結果が分かってるからこそ」読んでたら痛くなるようなところがすごくあって。私と同じように感じるかどうかわかんないんですけども、今を知ってるみんなにこの61年の話観てもらいたいですね。

もちろん、今回演劇だから事実だけをやるってわけじゃないんですけども、青春! みたいなところもあって、まあちょっとバカみたいなところもあって、みたいなところがとても楽しい。楽しめる作品になるんじゃないかな?

私の知り合いにも福島の出身で3月11日が近づいてくる度にちょっと鬱っぽくなるって方がいて、そういう方が観たい気になるかどうかはわからないですけど。
でも足を運んでもらったらまた違うかもしれないですし……違わないかもしれないんですけども、私としては観て欲しいなって思う作品になりそうだなっていうのは感じています。

──今回の役柄は百花さん的にはどうですか?

百花:実年齢より上の役でそもそも福島出身の役なんですね。今も頑張って福島弁で喋ろうとしてるんですね。方言という意味ではひとつハードルが高いところはあって、どうしても私は関西。神戸なんでちょっとイントネーションとか違ったりするんです。それでも福島にいた人っていうのでやってるので習得してこうと頑張ってます。ダルカラでは実年齢より上の役ってあんまりやった記憶がなくて、私のことを知ってる方が私と思わなかったら勝ちかなっと思います。

──観客の方へのメッセージをお願いします。

百花:私、そんなに喋りが上手いわけじゃねぇんで……メッセージって言ってもあれなんですけんちょも。なんとなくデリケートなのかなというとこもありつつも、全部分かってるわけではないけども過敏に反応することが嫌だったりするんですよ。

例えば福島産の……ってなった時に「えっ!」って反応をする人もいてもいいんですけど、自分はしたくないと言うか。今、お米が切れちゃってるんですけど、この前まで福島産のお米を買ってて、別にいいことしてるとかじゃなくて……過敏に反応するのがちょっと違うかなと自分では思ってます。

もちろん、人それぞれなんですけど、この作品もある部分ではちょっとデリケートな問題なのかなって今すごく思っていて。取り扱う時に、例えば劇場さんだとか役者個人個人でもそうだけど、腫れものに触るに近いようなことがあるのかなって感じていて。福島で初日を迎えるから実際身近で起こったことを、分かってる人の前で演るっていうことのある種プレッシャーはあります。

それでも、谷がこの作品をやりたい。福島のことを書きたい! ってなって、実際に今作品を作ってる最中なんですけど。何がいいとか悪いとかそういうところではない、何か答えが明確に出るものではないですけど、そこに人間ドラマもあるし、この物語に出てくる人たちは実在の関係者のほんの一部だけども、それでも色んな人の気持ちがあるわけで。

福島三部作っていうちょっと重めのデリケートなとこかもしれないけど、演劇だと言うことを忘れないで欲しくて。そこに出てくる人間模様だとか、エンターテイメント性だとかもある意味楽しんで欲しくって。

福島の話だからとか、難しいテーマ扱ってそうだなとか、敬遠してる人も含め本当に色んな人に観て欲しい。史実も演劇も人間がやってることだから、沢山の人に観てもらえたら嬉しいからどうか観に来て下さい。

宮地洸成インタビュー

──まず自己紹介をお願いします。

宮地:宮地洸成(みやちひろなり)と申します。いま二十歳で大学行きながらお芝居をフリーでやっております。

──出身はどちらなんですか?

宮地:僕は東京生まれ東京育ちなんで都会っ子ってよくバカにされます。親からずっと東京ですね。東京以外には縁がないというか、旅行とかでたまに行くくらいですかね。

──今回ダルカラのオーディションに参加しようと思ったきっかけと、実際に参加してみての印象を伺えますか。

宮地:参加したのはダルカラの『河童』を初めて観てそこから全作品を観ていて、好きな劇団だったんです、簡単に言うと。だからいつか参加したいなぁという気持ちはありました。

──『河童』を観てどんな感想でしたか? そこで何か感じてまた次の公演も観に行ったんですよね?

宮地:いやー、あんまり覚えてない……って言っちゃいけないですね(笑)。たまたま『夏目漱石とねこ』っていう面白そうな芝居がやってるから観に行こうって行ったら「あ、これダルカラ、『河童』の劇団だ!」って偶然が重なって。

──これだけ色々エンタメがある中で、芝居を選んだのは何か理由がありますか?

宮地:高校時代に演劇部に入っていて、ダルカラ観たのも高校時代だったんですけれど、演劇部に入ったのはちゃんとした理由はなくてとりあえず部活に入らなきゃという感じで。

──その理由で演劇部選びますか? (笑)

宮地:何なんですかね(笑)。本当に何で選んだのか覚えてないし特に理由があったわけでもなかったので……

──人前に出ることについては抵抗がなかったんでしょうか?

宮地:普段はともかく、いざ演技をしろって言われるとちゃんと人前で恥ずかしがらずにやることが当たり前というか、そういうのを求められてるから逆に開き直ってやれますね。

──そのまま大学に入ってからも演劇を続けてたんですか?

宮地:そこがダルカラと僕は関連したエピソードがあって、僕、高校の演劇部卒業して大学の演劇部とかには入らなかったんですよ。何でかって言うと、高校時代に演劇部の先輩から「大学演劇はクソだから絶対にやめとけ!」って偏見を植え付けられてたわけですね。一応弁明しておくと、高校演劇も大学演劇も、クソなのもあるしいいものもあると思ってますよ、今では(笑)。

そういうわけで、大学時代はちょっと別のことをやってみようと思って、放蕩生活? みたいなのを送っていました。それでダルカラの『演劇』がちょうど大学一年生の時にやってて観に行ったんですけど、進路のこととか未来について考えなきゃいけない時期に、ちょうど『演劇』っていう、すっごいざっくり言っちゃうと「自分の好きなことをやろう!」みたいに思える芝居に出会えて勇気付けられたんですよ。それで『演劇』を2回観て、すぐ「芝居やろう!」とはならなかったんですけど(笑)でも「自分のやりたいことをやろう!」っていう考えは残ったんです。そこから、友達の芝居観て楽しそうに見えて、自分も芝居やろうかなぁみたいな。

ダルカラが大きなきっかけになったというわけではないんですけど、ダルカラ観て、じゃあ「好きなことやろう!」「やっぱ芝居楽しいな!」って気づいて今こうやって続けてる感じですね。ちょっとうまく説明できない(笑)。

──今も大学の中の団体には入らずにフリーでやってるんですね。

宮地:そうです。フリーでふらふらしつつオーディションもふらふらしつつ、そしたらダルカラがオーディションやるってことになってこれはもう絶対に受けなきゃ! 受からなきゃ! という結構高いモチベーションで臨んだら本当に受かった。「やったー!」って感じです。

──実際に稽古に参加してみての印象はいかがですか?

宮地:いやぁ、難しいなぁっていうのが……難しい言葉もたくさん出てきますし、ダルカラの劇団員の方とか客演の方とかがすごく上手いのでそこに追いついていかなきゃって思うと、自分が本気でやっても全然届かないレベルじゃないですか、目指しているところが。言葉への想像力をもっとつけないといけなかったり、かといってモタモタしているわけにもいかず、その難しさにやられないように必死に食らいついてやろうかなって思ってます。

方言もいま苦労してます。独特のイントネーションで伝えられるニュアンスとかがあるじゃないですか。それを福島ネイティブの大原さんとか大内さんに教えてもらえるんですけれど、それがなかなか身につかないと、いざテンション高くなって芝居やった時にすぐ出てこないし、それを気にし過ぎててやりきったなって思っても、今の方言あってたかなぁ……みたいな不安感が常にあるので、方言もやらなきゃいけないしお芝居ももちろんやらなきゃいけないし、結構やらなきゃいけないことが多いんです。

──方言のお芝居は初めてですか?

宮地:初めてです。方言指導は基本的には大原さん大内さんにチェックしてもらってダメだしもらっての繰り返しですかね。音に慣れないととっさに出てこないですし。大原さんが今日言ってて面白かったのが、だんだんみんなのエセ福島弁が普通になってきて自分もわからなくなってきたって(笑)。独特の福島弁がいま稽古場に出来てきちゃってるのかもしれないです。

──福島の人が聞いたらちょっと違うって思いそう? (笑)

宮地:今回、時代が違うってのも難しいところではあるのかなと思います。昔の方が訛りが強いと思うので。

──1961年だと全然知らない世界ですよね。

宮地:そうですね。東京生まれ東京育ちの僕にとっては田舎の風景にも馴染みがないですから、想像力も必要だし、方言以外にも福島について知らなきゃいけないし、本当にやることがたくさんあるんですよね。

──2011年3月11日に何をしていたか覚えていますか?

宮地:僕は中学一年生で学校の式典をやってる時で、大きな地震が東北の方であったと。みんな家に帰らされてしばらくずっと家にいました。親戚を亡くしたりとかは僕の周辺ではなかったので、すげえことが起きたんだっていう実感があんまりなかったですね。

──学校からは普通に帰れたんですか?

宮地:はい、学校から家がとても近かったので。ニュースを見ると津波が起きてるんだとか映像で入ってきますし伝わってきますけど、自分の身の回りで物を買いあさったとか停電の話とか聞くと影響はあるんだなって感じながら、福島の人や震源地に近いほうに比べたらほとんど変わらない生活だったように思います。

──一番印象に残ってることは何ですか?

宮地:自分にとって印象に残ってることと言えば……ちょっと陳腐かもしれないですけど、ACのCM。ずっと同じCMが流れてるっていうことで、いつもと違う空気っていうのを感じましたね。自分の生活自体にあまり変化がなかったので、自分から知ろうとしないと伝わってこないっていうことを、いま震災に絡んだ芝居の稽古をしていて「ああ、こんなに知らなかったんだ」っていうことを、最近思いますね。

──今回、震災に関連するお芝居ということで何か本を読んだりされましたか?

宮地:はい、原発に関する本とか、実際に福島に行って浪江(浪江町)を歩いてみたりとか。一人で福島に行って何も予定を決めずにとりあえず浪江町に行って一人で歩いてみるっていうのをやりました。浪江って避難解除されてからもう一年くらい経ってて、いろんなところで工事してたり壊れた建物とかも撤去されたり建て直されたりしてて、一見、ここが本当に震災の影響を受けた町だってわからないんですけど、人がいないところは本当に無人だし、公園とかは誰も入ってないから草ぼうぼうで手付かずの状態だったりするのを見ると、やっぱり震災ってあったんだって実感を持って思い出したりして。

旅行する時に下調べとか僕は全然しないタイプなので、そういう意味では収穫は少なかったのかなって思ったりもしますが、そういう風景を見る一方で、最近営業を再開した浪江のローソンが復興に向けて働いている人たちですごく混んでいたりする光景も、実際に見てきました。双葉町とかは人が住めない町だって言われてて、浪江にもそういう印象を持ってたんですけど、東京にいるとそういう偏見しか届いてこないんだなぁって思いました。人が実際に働いているところを見ると活気付けられるというか、そういうことは実際行ってみないとわからないなっていうのを実感しましたね。

──今回の作品に対する思いを伺えますか。

宮地:福島のひとつの村の話なんですが、僕はさっき言ったとおり東京生まれ東京育ちだから自分の生活とは違うことだらけだというのが大きいですし、震災事故に関して福島っていう被害の当事者としての感覚と、原発を無視してきたことによる加害者としての気持ちというか違いがあるっていうのは、ちゃんと理解して臨まなきゃなとは前から思ってて。作品の中にもそういう要素があって、福島の話なんで主に福島の人の意見が出てくるお芝居なんですけど。俺はもう東京に行くから福島の原発のことなんか関係ねぇっていうような台詞があって、これは福島の人のためだけに作られた芝居じゃない、むしろ東京とか福島以外の人たち、福島を無視して実質加害してきた、同じ国に住んでるのに無視してきた人たちに向けて作られてるんだなっていうのを感じて、僕は東京都民、生まれも育ちも東京都ですからそこはすごい身につまされる思いがする要素がたくさんある作品です。

──宮地さんが演じる役に対して、方言を抜きにした時に難しい要素はありますか?

宮地:僕は若者の役をやるために今回参加させてもらってると思うのですが、よく行く方々で「君、30代?」「……20歳です」って(笑)。言っちゃえば老け顔なんです。田舎の人の役ということで、本当にこれ自分で成立してるのかな、都会育ちの30代に見える老け顔が田舎の若者の役やって成立するんだ? っていう、そこに対する困惑はありますね。僕が自分のことよくわかってないだけかもしれないですけど。

──谷さんの演出を受けてみてどう感じていますか?

宮地:結構踏み込んだ質問しますね(笑)。なんか一個一個の注文が面白くて、谷さんには色々な意図があるんでしょうけど、「あれやって」って言われて実際にやってみるとそれがすごい楽しくて、こういうやり方ありなんだ、これやるとすげえ楽しいなみたいな発見がダメだし受ける度にあって、演劇って面白れえなっていうのを教えてもらっているってすごく感じますね。もちろんシーンによるんですけど全然自分わかってないなって実感させられることもあるので、そういう意味では本当に言葉どおり楽しくもあるし厳しくもあるし、いい現場だなって思っております。

──宮地さんのメンターは大原さんですよね。メンター制度ってそもそも誰が言い出したんですか?

宮地:谷さんです。谷さんが初日に「メンター制度をやります」って、もう組み合わせも考えてあったみたいで、僕は大原さんで。大原さんとは今回が初めましてなんですけど、僕はそれまでダルカラを観ていた側だったので、今まで役者さんとして観てた人が自分と一緒にやるんだっていう、距離感がよくわからないところがあって、最初は一緒にいても一緒にいる感じがしないというか(笑)。これ本当にあの大原さんか、あの芝居であれやってた大原さんかって最初の方は結構感じてました。稽古が進む中で、客演の方も含め皆さん色々言ってくれるのですごく優しい大人が集まってる現場だと思います。裕朗さん(井上裕朗さん)も、芝居観るとすごい怖い人だな、厳しそうな人だな、理知的だなって思ってたんですけど、実際会ってみたらニコって笑ってくれて優しくて。一緒にやれてよかったなと思います。

──では最後に観客の方へのメッセージをお願いします。

宮地:自分が東京都民だからこの芝居に思うことが多くて、だからこそ東京の人に観て欲しいなっていう気持ちがあります。今まで福島に対して無関心でいた人こそ観て欲しいなって思うし、ちょっとでも興味あるなら観た方が絶対面白いと思うし、僕も頑張ってるので(笑)観に来て欲しいです。

大内彩加インタビュー

──自己紹介からお願いします。

大内:大内彩加と申します。大きく内側に彩りを加えると書いて「おおうちさいか」です。本名です。福島県飯舘村出身で今24歳です。福島県飯舘村の『までい大使』と、世界四大ミスコンのミス・アースジャパンの福島ファイナリストで3位になりミス・ウォーターとして活動しながら東京で役者活動を続けている女です。

──『までい大使』とは何ですか?

大内:までいとは「真心込めて丁寧に」と言う福島の方言なんですね。飯舘村自体を活性化していったり、外に向けて飯舘村の色々な情報や内包されたもの、飯舘村の歴史を伝えていく人を応援するっていうのが、『までい大使』です。

──それは飯舘村独自のものですか?

大内:そうですね。飯舘村独自のものですね。そして、飯舘村出身の役者で『までい大使』なのは私だけでして、なおかつ東京で活動しているので、この東京で何か福島のために出来ることはないかなと思いつつ色々やってはいますが、一番やりたいことは芝居なので、芝居に絡めた活動が出来ればと思っています。

──芝居はいつ頃から演られてるのですか?

大内:ちゃんと芝居の勉強をし始めたのは、高校卒業して専門学校に通ってからですね。

──それは何かきっかけがあったのですか?

大内:芝居が楽しいものなんだって思ったきっかけが、ちょうど幼稚園生の時の遠足で『オズの魔法使い』を観に行った時ですね。そこでお芝居が終わって最後に園児たちを代表して壇上で好きなキャストに花束を渡せるっていうのがあって、幼稚園側が私は片親でかわいそうだからって理由で選んでくれました。そうしたらキャストの方がクルンって私のことをひっくり返して、壇上から客席に向かっての景色を見せてくれたんです。その時に舞台上からの照明のキラキラ具合であったりとか、お客さんの目であったりとかに感動して、こんなに素敵な世界があるんだって思ったことから「あっ、お芝居やってみたい」って思ったのが始まりです。

それからお笑い芸人になりたいとか声優になりたいとか、なんかしら表現者になりたいといろいろ迷いながらもやっぱり役者をやろうと思って。舞台でも映像でも声のお仕事でも、とにかくお芝居をやろうってずっと思い続けてて、高校を卒業してからしっかり演技を勉強する為にはどうしたらいいんだろうと考えて、専門学校に通いました。

──今回、ダルカラに参加することになったのはオーディションだと伺ってますが。

大内:オーディションを受けようと思ったきっかけは、やっぱり私は被災者……かつ役者なので福島を扱った題材には出続けよう! 出ていたいって思いがすごく強いんです。それで何か福島の芝居で今オーディションとか情報とか何かないかなって思って調べてる時に、ちょうど谷さんのクラウドファンディングの企画を見つけて。谷さんがこういう思いでこの芝居をやりたいって言う文章を拝見した時に「あっ! これだ! 私がやりたかったことはこれなんだ!」ってすごい思ったんです。ちょうどその時、佐々木蔵之介さんのリチャード三世だったり、デジモンアドベンチャーの舞台を控えていたり、谷さんがすごい活躍されている時期で。まだオーディションの情報とか一切出てなかったんで、きっと劇団員の方とか外部から人気のある役者さんを使うんじゃないかな、とは思ったんですけど……でも、ちょっと一発頼み込んでみようと思って(笑)。ちょうど「ふくしま再生の会」の活動に谷さんが関わっているのを知って、その会には東京大学大学院の溝口教授という方もいて。実は溝口教授とは『までい大使』の関係で何度もお仕事をしたことがあったので谷さんのお話を伺って、「私はこの作品にどうしても出たいです」って手紙を書いてみよう! と思ったんです。その矢先にオーディション情報が発表されて「はい! 運命!」っと思って(笑)。しかも、若手オーディションで「はい! 私若手!」っと思って(笑)。27歳以下だったんですね受けられるの…それで自分の年齢を再確認していけると思って、オーディションに応募したのがきっかけですね。

──すごいタイミングでしたね。

大内:すごいタイミングでした。手紙を書かずに済みました(笑)。書いてみても面白かったなとは思うんですけど……。

──実際に参加してみてどうですか?

大内:「あなたに出て欲しいと思っています」と言うメールをいただいて、谷さんにも面接していただいて、更に制作の小野塚さんに「本当に私出るんですか?」ってもう一回再確認して。「もちろんです。出ます。」って言われて「あっ、出られるんだ。」って感激して。ついに、チラシも発表されて「あっ! 私やっぱり出るんだ。」って、そこから稽古初日迎えるまで自分がこの作品に出られるってことが信じられなくて。本当に、本当に、一番出たかったものなんです。もちろん、これからも福島の芝居には出たいとは思い続けるんでしょう。

正直に言うと、3・11当時に高校生だった自分が報われるように活動しているところがあるんですね。なのでこの作品に出たら、あの時の私が少しでも報われるんじゃないかって思いもあって、それだけの理由ではないですが、この芝居に出られるってことが信じられないほど嬉しくて。

でも、実際に稽古通い始めて……もう九日目くらいになりますけど、「いや~~~本当に幸せものだな」っと思って楽しさしかないです。こんなに芝居って無限大の可能性を秘めてるんだと、ここの稽古場に毎日毎日来る度に本当に本当に楽しくって。もちろん諸先輩方であったり谷さんであったり若手の三人であったり制作の小野塚さんであったり、色んな方々の支えであったりご助力の上に成り立っているんですけど。「こんなに芝居って楽しいものなんだ。私本当に芝居好きなんだな。」って毎日毎日思わせてくれる現場です。この芝居をやっていて感じることは、とにかく多くの人に観に来てほしいということ。例えば芝居を観たことのない方であったり、福島のお話はちょっと……という方にも。あと舞台をよく観ている方。勿論、ダルカラ好きな方や好きなキャストがいらっしゃる方。そしてこの言い方すごく失礼ですけど、最近面白くない芝居を観た方、付き合いで舞台を観に行ってる方、役者関係でも多いんですよね、付き合いで行かなきゃならないとか付き合いで渋々観に行ってますという人。そうじゃなくて、私は「面白い舞台を観てほしいから」ダルカラをオススメします。付き合いとかそういうのは無しに、役者として、舞台というフィールドで戦う者としてこの作品を観てもらいたい。「芝居ってこんなにすごいんだぞ、面白いんだそ、心揺さぶられるんだぞ」っていうものを観てもらいたいって、こんなにも純粋に思える作品って久しぶりだなっていうくらいに楽しいです。とにかく楽しいです。

──東日本大震災当日の記憶について、もう少し聞かせてもらっていいですか?

大内:私は飯舘村の自宅から隣の南相馬市の高校に通っていました。ちょうど授業中でその時間もすごい覚えているんです。14時47分。それは何故かって言うと、数学の授業中で早く終わらないかなぁって思っていて。春から高校3年生になって放送部の全国大会を控えてて、自分の部活のために部長として何が出来るんだろう? どんな作品作りしよう? 何をしよう? って授業に集中もできなくって。

早く授業終って部活に行きたいとの思いでずっと時計見ていた時に、あれ? ってちょっとずつ揺れ始めて地震だってなったんです。みんなもあれ? あれ? ってなって……でも収まるだろうって思ってたらどんどんどんどん揺れが大きくなって、ものすごく揺れてそれで一回その大きな揺れが収まったんですよね。後から南相馬は震源地だったとわかるんですけど、その時は「すごい揺れたね」「今のなんだったんだろう」って、みんな机の下に潜ってたりしていて。そこで先生が焦ったのかどうかわからないんですけど、さぁ授業を始めるぞって立ちあがったんです。そして私だけ机の下から出てきて「はい!」って言って(笑)。座ったらまた大きい揺れがバン! ってきて、これは只事じゃないと思って。女の子たちは泣き叫んでるし、友達のことなだめるのに私も精一杯で、二回目の大きい揺れが止まった時、窓ガラスは割れてるわ、結構古い高校だったので天井は落ちてきてるわで大惨事になってて。これは一回外に出よう、と先生が指示を出してくれてみんなで外に避難したんです。でも、校庭も地割れ状態。何が起きてるかわからない。みんな携帯は持ってきているけど電波はつながらない。おまけに雪まで降ってきてすごく寒い状況で外でずっと待たされてた時、遠くで何かが爆発する音がして、しかも先生たちがすごい焦った声で津波が近くまで来てるって言って。私たちの高校から十キロくらいのところで津波がちょうど積止まって大丈夫だったんですけど、なんかこれは只事じゃない、と……。

一時間後にやっと家族に電話がつながって、お母さんに迎えに来てもらえないか? って言ったんですけど、家もぐちゃぐちゃだし家具も倒れてきておばあちゃんも死にかけたし……「今は迎えに行ける状況じゃない」って言われて。どうしようって時にちょうど飯舘村に帰る友達のお父さんがいて、飯舘村に帰る人はみんな一緒に帰ろうってなって、ようやく夕方の6時頃に飯舘村に帰ってきたんですけど、山道なので半分崩落してたりとかしてて帰るのも必死でした。

途中寄ったコンビニもその時には品物がないぐらいガラガラ状態で、地震が起きて三時間もたってないのにガラガラなんですよ。それぐらいの状態でようやく帰ってきたら飯舘村が真っ暗になってて。街灯もぽつんぽつんとしか立ってないですけど、民家もちらほらありますし当然電気ついてると思ったら何一つ電気がついてなくって。

私、その日バイトの日だったんですね。だから家の目の前のセブンイレブンにとりあえずバイトに行こうって思ったんです。真っ暗なのにね。真っ暗なのに日常を過ごそうとしていたんですね。バイト先に行ったら酒瓶とか全部ぐちゃぐちゃに割れてるし、そしたら店長さんが「さいかちゃん、今日大丈夫だから。お母さんのそばにいてあげて。」って言ってくれて。それで家に戻ったんだけど、家の中もグチャグチャだし電気はつかないし「とりあえずおばあちゃんは家の中にいるから、さいかとお母さんは今日は車の中で過ごせ」って。家は土壁だったのでボロボロ崩れてるし余震がひどくってずっと揺れてる状態で、その日は車の中で一夜を過ごしたんですけど、ずっと雪が降ってるので寒いし。寒い車の中、一緒に布団包まって。

私の家の前がちょうど大きな一本道が通ってるところだったんですね。停電して真っ暗になってる中、車のテールランプだけが光り輝いて。ずっと渋滞を起こしてるっていうような異様な光景を見ながら、「あ、ウォークマン持ってるやんけ。ラジオ聞けるやんけ」と思って聞いたんです。そしたら、東京も福島も大混乱。宮城は火災が起きてる。原発は爆発してる。津波で何千人って流されてるっていう悲惨な状況しか聞こえなくて。なんだ? これは? って、すごいことが今起きてるんだってはっきり実感して、「この日のこと絶対忘れちゃいけない」って思ったんですよね。絶対これは異常事態だし。その時にはもうすでに役者になりたいと思ってたので、絶対忘れちゃいけないし、これは永遠に私は語り継いでいかなくちゃなんないって。謎の使命感を持ちながら、とりあえず凍えてる母と一緒に今こういう状況なんだって……でも大丈夫だよ大丈夫って言ってたんです。そして東京のラジオだから、忍たま乱太郎の勇気100%とかアンパンマンのマーチとか流れてるんですよ。そういうの聞きながら「お母さん、大丈夫、大丈夫だよ」って言いながら3.11を終えました。

──ずいぶんしっかりしていたんですね。

大内:よく言われます。だからって言う訳ではないと思いますが、他の若手三人は比較的若い役どころで、若手の中でも私ひとりだけポツンとちょっと年の離れた大人枠をやってるのは、元からの妙な落ち着きがあるせいなのかなと感じつつ。愛を叫べない役をやってます(笑)。

──今回の作品と役についてもう少し話していただけますか?

大内:作品については、やっぱり一番最初懸念してたのが福島のお話ということで小難しい話であったりとか、観た人がこれは原発非難だとかなんか原発に関してうんたらかんたら、左翼・右翼とか、どうしてもそっちの政治的な話になるんじゃないかっていう懸念はあったんですよね。今まで自分自身福島の舞台に色々出てきましたけど、色んな感想を持つ人が居ていいとは思うんですけど、福島に対して変な誤解はして欲しくないなっていう思いがどうしてもあって。

ただ台本を見たときにその不安は一切なくなりました。いや、ホント天才だなと思って、こんなこんな面白く書いてくれたんだ。さすが! 谷賢一! ありがとう(笑)。青春群像劇だったり愛だの熱量だの情熱だのキラキラだのすごい詰まってるじゃないですか。これむしろ新しい福島が見られるんじゃないかと思って、福島の舞台の中でも新しい描き方をしているなーって思って本当に安心しました。だからこそ、今まで福島の舞台を敬遠して観るの控えているんだって人にも、ちょっと観てみない? 今回は……って。この舞台は別のアプローチからやってるよっていうのを言えるなと思っています。

──役柄としては他の若者たちとは独立しているということは、大人の役者と絡む機会が多いってことですか?

大内:私、自分の役いいな~って思うのが、どの役とも一度は絡んでるんですよね、大人とも絡むし子供とも絡む。ある一人の役を除いては。チーム若者との役での独立っぷりは半端ないですが、方言指導で本人達と関わっているので寂しさは感じていません(笑)。
谷さんが今日稽古で言ってたんですけど、大内がこの役を演ってるのが面白いって。実際は原発によって苦しめられて故郷を失った人間が、こんな役を貰えるなんて!って、舞台を観ていただければ分かるのですが私を知っている人からしてみれば凄いです(笑)。まさかのキャスティング。しかしそこが良い。こういうことがあるからこそ、芝居って面白いなぁ、役者の醍醐味だなあって思えるので、自分の役が本当に愛おしいです。

──演りやすい役って訳でもないんですよね?

大内:そうですね(笑)。やり甲斐のある役です! やり易さはあまりないです。面白みはすごい詰まってます。特に今日稽古していた7景。舞台のネタバレにならないようにしますが、自分の仕事について、ものすごく誇りをもっている人だと思うんですよね、この人は。知識量もすごい、そもそも1961年当初の時代背景から考えてみても、女性でこの若さでこのキャリア、只者じゃない。とは言いつつも、私個人は被災者ですし、結末を知ってるからこそこの役を演じるにあたって難しいな、ここどうしようかな、と思うところもあります。ただ、私は政治的観念からとかそういうのは全く関係無しに、今の日本には原発必要じゃんって思ってしまいます。原発事故がおきて故郷を失った女であろうと、原発による電力エネルギーで生活している人たちがいて、それでお金を貰ってる人たちが今現状いるのであれば、それをすべて否定することはできないって、そこは割り切っているので。当時の人たちの想いを背負って、この芝居に向き合いたい。つまり私が頂いた役はやり甲斐だらけで、その壁を乗り越えながら本番を迎えるのは、役者の醍醐味だなと思います。

──では、最後に観客の皆さんへのメッセージをお願いします。

大内:芝居の無限大の可能性を感じる作品になってるので、この歴史的瞬間を、福島県民としても被災者としても、そして役者としても見逃してほしくないと思ってます。福島の現在、当時を描く作品・舞台が多い中、今回の福島三部作第一部は非常に面白いことに、福島の過去を描いた作品です。フィクションとノンフィクションの狭間にあるような作品。どうか、どうか観に来て下さい。そして、新しい「福島」を観ていただければ幸いです。

丸山夏歩インタビュー

──自己紹介からお願いします。

山:丸山夏歩(まるやまなつほ)と申します。26歳の一人っ子です。東京都出身で幼稚園入るくらいまでは兵庫県西宮市に住んでて、そこからはまた東京に住んでます。大学から演劇を始めて四年間やったんですけど、一度社会人として広告代理店で働いてまた演劇に戻ってきました。

──なぜ広告代理店だったんですか?

丸山:なにかクリエイティブな仕事がしたかったんです。実際は営業でしたがクリエイティブな仕事に関わってるし、包括的にいい経験でした。でも、演劇とどっちがやりたいかって考えた時、生意気な言い方に聞こえてしまうかもしれませんが、今の仕事にこの先のビジョンが見えないなと思って、演劇に戻ってきました。

──ダルカラに参加してみてどうですか?

丸山:もちろん、ダルカラの存在は知っていたんですけど、いつもタイミングを逃してしまって観たことはなくって……。でも、どうやら高校の先輩がダルカラの劇団員(中村梨那)らしいってことを知って、それがフックになって谷さんのオーディション募集のツイッターを見つけた時、速攻で応募しました。

どうやら面白いらしい、自分もそれに挑戦してみたいし食らいついていきたいしって気持ちで臨んだんですけど、意外と緊張しいでザワザワが止まらなかったですね。諸先輩方から吸収することが沢山あって、先輩をどう見るかといったこと一つとっても学ぶことだらけで毎日ヘトヘトになります。

──他の現場との違いって感じたりしますか?

丸山:違いですか……演劇に対する愛の深い人達が多いなって気がします。お互いを信じてるというか、それを疑っていない風に感じました。私はそういう団体にめぐり逢いたいと思っていたんで、そこに自分が入れることがすごく嬉しいです。嬉しいから自分も何かしでかしてやろうと思うし、若者(笑)として前のめりになっていかなきゃなと思います。皆さん暖かいし……しっかり意見も持ってるし、まだまだそんなに話せてはないけどそれは感じてるのでどんどん聞きたいし触れたいし、自分の思いもぶつけていきたいです。

──今回の作品は原発とか東日本大震災がテーマになっているので、2011年3月11日当時の記憶を聞かせていただけますか?

丸山:大学一年生から二年生になる時で当時早稲田のサークルに入ってたんですけど、その公演の稽古中で早稲田のどらま館にいて、めちゃくちゃ揺れました。

そして、その時の主宰が東北出身で津波以降母親と連絡が取れなくなってしまって、本番を一週間後に控えててどうするか?みたいになりまして、日本をとりまく状況もセンセーショナルだけどそれが身近な人に起こってるっていう衝撃が大きかったです。結局、電池を心配して携帯の電源を切っていただけでお母様は無事だったんですけどね。

皆で福島の様子が流れるテレビを見てて、現実感が無くて原発の存在自体今まであまり意識してなくて、自分が東京で使ってる電気はそこから来てるかもしれなかったのに、何も考えてなかったなって思ったのが印象に残ってます。

あの時の地震の揺れも怖かったんですけど、私は西宮に住んでたので阪神淡路大震災も微妙に絡んでて。私と母はたまたまおじいちゃん家にいたので父しかいなかったんですけど、西宮の家に帰った時食器棚からガラスがなくなってたりとか……一緒に遊んでた友達の家がぺしゃんこになってるみたいな……あるものがなくなるっていう断片的な記憶があって。

地震が起きた時、正直また来たか、という印象もありました。

──その時のお芝居は演ったんですか?

丸山:演ったんですよ。

何度も話しあったんですけど、主宰が演るって決めたものをどうしても演りたい、と……演るって決めて本番が始まる真ん中辺りでお母様の無事がわかったんで本当に良かったんですけどね。もちろん、社会的に演っていいのか本当に悩んだんですけど私達は演るっていう選択をしました。

──ちなみにその主宰の方は今も演劇を?

丸山:これがですね。すっぱり辞めました(笑)。いや、すっぱりではないですね。ちょくちょく演劇に関わってるんでやっぱり好きなんでしょうね。

この先はわかんないです。彼なんで(笑)

──今回の作品についての印象を聞かせていただけますか?

丸山:史実に基づいているって聞いていたので、こんなことがあったんだとか、この人達はこの時こうせざるを得なかったのかとか、各々の矜持なのかプライドなのか美学なのかわからないですけど、それが今の悲劇に繋がってる。台本を読んだ時そのことがクリアに分かった気がして正直、恐ろしいなと思いました。

今回の作品に出てくるシーンなんですけど、圧倒的悪ではないことがこんなに悪を生んでしまう危険性や脆さ。自分たちがその時は正しいと思ってやってることが、違う見方をするとこんなに変わってしまうっていうのがすごい抉られます。

私が演じる役は、相思相愛なんですけど地元も離れたくない。その当時の女性って、今の東京に住む私とは結構かけ離れたところがあって、理解できるところもあるけど圧倒的に理解できない部分というか自分にはない部分もあるんです。彼に対してすごく愛情はあるのに保守的になってしまう。私なら愛情を取るんですけど、お母さんとかおばあちゃんとか見てたら地元への思いみたいなものもなんとなく分かる。決して違う世界のことではないなっていう思いもあります。

話はちょっと違うんですけど……例えば私に就職して欲しいと両親が思ってるのを感じて……やっぱり家族が好きだからそちらを選ぶ、みたいな。だから舞台を観てもらった時、男の人でも女の人でも私の役の気持ちに賛同してくれる人はいっぱいいると思います。でも、私的には内田君の役の気持ちの方に近い気がします(笑)。

女の人の社会的地位とか役割とか自分の意志を持ち始めるっていうのは、この1961年当時からもあったのかなと思って。

私、女であることはいいんですけど……男だったら良いのにみたいに思うこともあって、それって大体社会的なことじゃないですか? それが1961年では今よりもっとあるんだなと思うと、強さのこめ方とかベクトルが今とは違うんだなって感じます。

すごい可愛いですね、私の役。すごく愛のある人で。

──今の女性の置かれてる立場ってどう感じてますか?

丸山:働けともいうし結婚しろとか子供産めとか……もちろん両立出来るんでしょうけど。結構要求が高いなと、なんとなくそれをこなしてる女性が素晴らしいみたいな風潮もある気もするし、色々とやれることが増えてしまったからこそ自分で選択することの難しさも感じちゃいますね。

──観客の皆さんに向けてメッセージをお願いします。

丸山:世の中、考えることはいっぱいあるけども今の日本だからこそ考えてみるべきコンテンツの一つだと思ってます。これからの為っていうのが一番あって、これからの為にちょっと昔を振り返ってみる機会になればいいなと思ってるし、青春の物語だし、肩肘張らず観に来て欲しい。何かを考えるきっかけになればいいなと思います。自分自身とても考えるきっかけになったのでそれを共有したいし、話したいです。なるだけ多くの人に観に来てほしいので、よろしくお願いします。

内田倭史インタビュー

 

──早速ですが、自己紹介をお願いします。

内田:内田倭史(うちだまさふみ)です。22歳で出身は九州の大分県で、大学一年生の時に上京してきて今は東京に住んでいます。大学で演劇を始めて今は五年目です。ちょっと4年生ではないんですけど(笑)。

──大学に入ってから演劇を始めたんですね?

内田:そうですね。大分県だと小劇場と呼ばれるものは恐らくあまり無くって、知ってる舞台と呼ばれるものは吉本新喜劇かわらび座さんの巡業舞台しか観たことがないんですね。だから、東京に出てきた時に初めて小劇場っていうものを観て、衝撃を受けて演劇を始めようかってなりました。

──ちなみに最初に観た作品って覚えていますか?

内田:厳密に言うと自分の大学で出来た友達が演劇サークルに入って、付き合いでそのサークルに入ったらすぐにコント公演があってそれに出たんですけど。そこから外の世界へ観劇に行こうと思うようになって、演劇っていうと下北沢しか知らなかったので、カムカムミニキーナなんかが多かったですね。笑いがあるお芝居の方が馴染みがある感じですかね。

──今回ダルカラに参加することになった経緯とか、稽古に参加してみての印象をお伺いしたいんですけど。

内田:僕も宮地もそうなんですけど2年前の『演劇』公演を観て、その時ダルカラはまったく知らなくて、チラシに『演劇』とだけ書いてあって、なんだろうって観に行ったんですね。そしたら、めちゃくちゃ面白いなっていう記憶だけあって、その後谷さん演出の舞台を何本か観てて、そしたらTwitterに募集がかかってたんです。

「年齢×何百円」のオーディション参加費みたいな取り組みが面白いなと思って応募したんですね。一番の動機は、ああいう作品を作る谷さんってどんな人だろう? 会ってみたいなと思ってオーディションを受けました。

で、いついつの期間までにメール連絡がありますって発表があって、でもまったく連絡が無くて「あぁ、ダメだったんだなぁ」くらいに思っていたんです。そこから更に二週間くらいしていきなり知らないアドレスからメールがあって、それが制作の小野塚さんで。谷さんでもないし小野塚さんって誰? みたいな(笑)状態だったんですけど。

一回みんな面談をやったらしいんですけど、谷さんとスケジュールが合わなくて僕は結局面談をしてなくて、オーディションの後で一緒に飲んでるので「内田は一度飲んでるから大丈夫」みたいなことを言われまして。フワフワというか、なんとなぁ~くな感じで稽古に入ったので「今日からよろしくお願いします!」みたいな区切りがないんですよね。

今の稽古場に若手もいるんですけど、どこかでちゃんと一人の俳優として扱ってくれてるなと、若手だからというような変な特別視はないです。もちろん、僕ら若手はできないことだらけなので、教えて下さるというのはあるんですけど。劇団員さんとか客演さんに対する態度と、僕ら若手に対する態度についても、ちゃんと独立した一人の俳優として扱っていただいてます。その分、僕らも僕らでちゃんと仕事をしなきゃいけないなというプレッシャーがじわじわと来ています。

──内田さんはご自身でも、劇団を主催してらっしゃるようですが、実際にダルカラの稽古を見て何か感じることがありますか?

内田:僕はダルカラの中村梨那さんも在籍していた「早稲田大学演劇倶楽部」に入っていて、そこで劇団を立ち上げたんですね。言っても学生劇団ですし、何回か公演は打ってるんですけど、圧倒的に積み重ねてきている技術であったり、お芝居に対する熱量に差があって。

もちろん、劇団公演をやってるときは「お芝居に対する熱量は負けてないぞ」って思ってやってるんですけど、いざ現場に来て先輩方が準備している様子とか見ると、あぁ全然僕らは足りてなかったなってすごく思います。ものすごく勉強不足だったなってすごく思います。それをやらないとなって強く思っています。

──東日本大震災があった2011年3月11日は何をしていたのか覚えていますか?

内田:すごく覚えていて、高校受験の合格発表の日で「受かった、受かった」って友達と一緒に喜んで、夜一緒に食事しようねと約束したんです。

家に帰ってみるとずっとニュースが流れてて、初めのうちは九州なんで危機感は当然なくて、そのうち何だか大きな地震だったらしいぞっていう話になり、そこからずっと同じニュースが一日流れてて、津波の映像が入ってきて惨状は見えてるんですけど、正直言うと、フィクションみたいなんです。

同い年の友達と話していると、震災の記憶というのは合格発表の日にあったTVの中の出来事っていう感覚だったんですね。誰かがニュースの中で当時を振り返って話しているのを覚えている感じです。だから、最初にニュースを見たときにすごいインパクトを覚えたかというとそうではないですね。

その後大学一年生の時に南三陸にボランティアに行っていて、それは海に漁師さんたちが帰ってきたときに仕事ができるようにするために、森林伐採に行ったんですね。森や川がちゃんとしていないと海で漁が出来ないということで。そのときもボランティアで行くとすごい人数がいて、みんなで作業してご飯たべてって感じで現場は見てるんですけど、悲惨さに対する実感があまりない。だから、あんまり災害に心動くということは無かったんです。ただ当時、地方のローカル線沿線を野宿しながら歩いたり、無人駅で野宿するような旅が好きだったので、仙石線っていう仙台と石巻を結ぶ路線があるんですけど、その沿線を歩こうと思って石巻から出発して、まぁ二日かかるだろうなと思って出発したんです。一人で歩いていて、そろそろ夜になったからグーグルマップを見ながら民宿を探そうとして、海岸沿いを歩いていたんですね。でも、ぜんぜん着かなくてグーグルマップでは到着しているはずなんだけど、周りに何にもないんです。トラックとかは通るんですけど、あるはずの街がその場に無いんですね。

その時、あぁ流されてしまったんだって、初めて実感を得ました。ニュースや学校で聞いた震災の姿とは全然違っていて、恐ろしいし寂しいし全部流されて何にも無くなっているんだなってその時初体感しました。その時は津波で流されてしまった光景を感じて、この前さらに飯舘村に行って、今度は放射能の驚異がまだ身近にあるっていう新たなショックを感じて。

被災された方々はまた違う受け取り方をしていて、この場所の放射能をどうするかが問題だし、津波の方はここに住むかどうか、高い防波堤を立てても更に高い津波が来るかも知れない。同じ被災者でも其々に捉え方が違う方達が住んでいるわけで。もっと知ろうとしなければいけないし、知れば知るほど色んな角度から考えなければならないし。

今、東京で普通に生活してると、時間も経っていてアンテナをなかなか張れなくなってきているなと思うんです。ただ、東京という小さな社会にも被災された方々も住んでいて、今回も同じ座組で同じようにお芝居をして共演するとなって、常に色んな角度からの見方を持っていないといけないなとは思います。

──田植えの時にも、色々なところへ行って見たんですよね?

内田:初めてガイガーカウンターをもって、表示がどこまで来たら危ないとか。それってTVで見ているドキュメンタリーの世界で、ドキュメンタリーとは言ってもTVの向こう側で起こっているフィクションのような感じだったものが、目の前にある。その体験というのは結構衝撃でした。

現実の世界では行政とのやり取りがあって、色んなものに板挟みにあいながらも自分の土地をどうするとか、それを御年配の方々が自分の代で何とかしないとと奮闘されていて、孫達に問題を先送りしてはいけないという思いもあるようでした。ボランティアに行った時も若い人が少なかったなとは感じましたね。

僕が一番思うのは、今活動している大人たちがいなくなった後もあれは残って行くもので、思いや考え方を引き継いで欲しいなと伝えて欲しいなと思いますね。ただ難しいと思うのは、あれから何年か経って改善されている現地の環境とかもあるだろうけど、そこにいる方々の個人的な感情としてあの場所に戻って赤ちゃんを育てられるかと訪ねられた時、「はい」って即答できない何かがあるなぁと思うのも事実ですね。

日頃、キャッチする機会や考えるきっかけが少ないと思うんですね。大学の授業でサラっと扱われても受け取れないし。そんな意味でも、今回の舞台は若い人たちも出ているので観に来てもらって、舞台作品として面白かったら、これきっかけで考える機会にもして、動いていくきっかけにもして欲しいですね。

──最初台本をもらった時と今稽古してみて印象は違いますか?

内田:最初は「おぉ、主役か!」(笑)と思いました。

谷さんに「このキャラクター、東京から福島にあることを宣言しに帰郷する、ざっくり言えば主人公」と言われて言葉を失いましたね。状況はもちろん主人公とは違うんですけど、九州から出てきて家族との関係とか地元の友人との関係とか重なる部分もあるなと思いました。

やっぱり、すごい試練を頂いたなぁと思うんですけど、3年くらいやってきた学生演劇の中でなんとなく出来ていた嘘が全部バレて、「それは違う」とハッキリ言われて。そこに徹底した思いとか準備とか、演劇の現場で感じることがすごく大切だということとか、それを持てないと成立しないシーンが沢山あります。

──方言はどうですか?

内田:方言がむずがしぃんだぁ(笑)。

僕は器用な方じゃないので、お芝居するっていうだけで一杯になるところに、福島の方言ですからね。九州は大分なんで大分の方言なら話せるんですけど、東北なんで真逆なんですよね。否定の「ん」とか分かるところもあるんですけど、発語の仕方が基本的に違うんです。南は大きく口を開けますけど、東北はなるべく小さく開けたり。おどどいの稽古のあとで、できたって思ったことがあるんですよ(笑)。ずっと鴻上尚史さんの発音の本を読んでいたんですよ。そこに頭蓋骨の中でハミングの位置を変えていくって書いてあって、それを真似ていたら「あ!訛れる」って掴んだと思った7分くらいは出来たんですけど、朝になったらすっかり飛んでいて(笑)。

夜勤でバイトしてるんですけど、お客さんと訛りで話せると「東北の方ですか?」と言われてすごく嬉しいんです。このタカシというキャラクターは、標準語と方言を使い分けるんですね。方言がぱっと出ちゃうシーンとかあって、その面白さは台本にはあるので、できるようになりたいなと思っています。気持ちは良くわかるんですよ。地元の友達とか親とかと話してると急に大分弁がでるので。

──メンター制度はどなたとですか?

内田:東谷さんです。もうちょっと東谷さんに教えて貰いたいことが沢山あるんですけど。最初は本読みだけだったのが、急に立ち稽古になって、いわき公演まで日にちがドンドン迫ってくる感じで。だから言われたことだけやっていては間に合わないなと思ってます。言ってくださることって、僕らが事前に勉強して準備して持ってて、指摘されて初めて意味のある指導になると思うので。僕が今持って来ていることじゃ対応できない。戦えない。色んな本に書いてあるから知ってるっていうだけで、学生演劇じゃ太刀打ちできない。今稽古していて初めてそれらを実感してるなって思ってます。「あぁ、こういうことか!」っていうのを実感しています。でも、実感しているだけで、自分のものになってない。まだまだ手持ちの武器も足りないです。

──最後にみなさんへのメッセージをどうぞ。

内田:個人的なコメントすると、若手がおっちゃん達に食らいついてるぞっていう様を観て欲しいです。そこで一つは負けねぇものを手に入れるぞって思っています。今はまだ稽古でバンバン負けてますけど、本番までにはこれは負けねぇってもんを手にします。若いっていうのはどこかで恥ずかしいこと、甘えることになるって思ってたんですけど、そこは若いってことを武器にしなくちゃいけないと思うようになって来たんですね。今持ってる武器は全部使わなきゃいけないな、若さも含めて自覚して武器は全部使えるようにならないといけないなと思っています。そんな感じで戦ってますので、それを観てくれって思ってます。僕は、ちゃんとした地方にも行って何週間も公演するような舞台に初めて立つんですね。デビューだと思ってるんです。

ダルカラの若手のオーディションで受かって、そいつらが芝居して、お客さんが覚えていてくれて、5年後10年後僕らがやれてるかっていうのを観て欲しいです。やれてなかったら仕方ないですけど、やれてたらその時は「あの時の子ね」って言って欲しいです。

公演のことについてコメントすると、しっかり「あぁ演劇おもしれぇな」って思えると思うんです。なんかよく見えない太い柱みたいな思いが舞台の真ん中にあるので、その周りで僕らが存分に暴れまくってるので、是非見届けてください。もちろん、その中で派生して色んなことを考えていただいて、感じたことをお話して欲しいです。作品観て原発のこととか都会と田舎のこととか色んなことを、どう感じて、何に共鳴して、何に反発したか。そんなことをお話したいです。

東谷英人インタビュー

──早速ですが、自己紹介をお願いします。

東谷:ダルカラの東谷英人(あずまやえいと)です。出身は宮城県仙台市。ただ、生まれたのは福島県の飯坂温泉というところの病院だそうです。母方のじいちゃん家がそっちにありまして、中学生くらいまでは結構頻繁に福島に帰ってました。

──谷さんも飯坂温泉を訪れてましたね。

東谷:行ってたみたいですね。だいぶ宮城の県境に近いので、福島市とかいわきの人は行かないような本当に宮城県よりの場所なんですよ。温泉街なんで水道代がタダ、みたいな町です。

──ダルカラが再開することについてどのような思いがありますか。

東谷:他の人はわからないですけど僕はそんなに休止したくないというか、解散じゃない、ちょっと間があくんで休止って宣言しちゃおうってことだったので気持ち的には休止という感じではなくて。その間、他の現場で芝居をやっていて同業者の方やお客さんに、「いつ再開するんですか」と1日1回聞かれるくらいの感じだったんですよ。

活動休止公演の『演劇』を結構たくさんの方が観てくれたっていうのもあると思うんですけど、有難いなぁと思ってました。休止自体はもっと長いのかなと思ってたんですけど、わりときっちり2年間で再開なので、あっという間という印象ですね。ずっと芝居に出てたからかもしれないですけど。この機会にあちこち行ってやろうと思っていて、もう再開かっていう感じです(笑)。

──他の劇団員とは休止期間に会ったりしてたんですか?

東谷:いやぁ、それが、ダルカラはドライな関係というか、芝居の現場じゃないのに飲みに行ったりしないんですよね。僕以外のみんなはしてるんですかね、とりあえず僕は誘われないし行ったこともないし(笑)。

客演先で、百花、塚越、大原とはたまたま一緒の現場になるってことは何回かありましたけど、それ以外で会うのは全くなくて。それで、去年ダルカラが合同会社になったんですけど、その時に全体で集まってミーティングをしたのが久々の再会でしたね。正直今も慣れてないというか、2年会ってないと人見知りが(笑)また再開しちゃうというか、なじめてないですね。稽古もまだ序盤なんで。

──今回の作品は東日本大震災が背景にありますが、2011年3月11日の記憶はありますか?

東谷:覚えてます。

あの時は高円寺に住んでいてお好み焼き屋でアルバイトをしてたんです。それで、勤務時間が朝の10時から15時だったんですけど、たまたまその日お客さんが全然いないので14時ちょっと過ぎにあがっていいよと言われて。帰ろうとして、お好み焼き屋の下駄箱から靴を取ろうとした時に、ガタガタガタって地震がきて下駄箱が倒れてきた、というのを覚えてますね。

あの日帰宅難民が結構出たじゃないですか。新宿で動けなくなったっていう知り合いがいっぱいて、高円寺まで歩いて来れるので「うち泊まりなよ」と声をかけたのであの日の夜はすごい来客数でした。10人以上いましたね、狭い部屋に。何もすることないし酒飲むかってなって、よくわからない夜でした。

僕自身は大丈夫だったんですけど、実家は大変だということでしばらく電話もつながらなくて。うちは仙台市の宮城野区なんですけど、8kmくらい自転車で走ったらもう海なんですよ。海側って感じではないんですけどそんなに遠くもなくて、僕が高校時代に野球をやってたグラウンドが海のそばにあって、そういうよく行ってた場所が津波で壊滅してまして。地震のあと、5月か6月に仙台に帰って様子を見て回ったんですけど、僕が練習してた野球グラウンドはもう、グラウンドではなかったですね。変な隆起があったり、田んぼに囲まれているような場所に船が真上から突き刺さっていたり、家が半分なかったり、新聞とかテレビで見るだけではわからないエグさがあって。当然信号もないので人が誘導してるんですよね。そういうところを車で回ってました。これは目に焼き付けておかねば、って思いまして。

その時はダルカラ入団直前だったんですけど、どうしようかなぁと思ったりして。宮城県出身の知り合いの女優さんの中には、一旦芝居を辞めて実家を手伝うという人もいました。

とにかく実家のことが気になりましたね。福島もおじさん家とかあったんですけど、実家にはおばあちゃんもいるので大丈夫かなとすごく心配でした。あの時から実家によく連絡とるようになりました。ツイッターもあの時くらいからすごく使いだしたような記憶がありますね。本当かどうかわからないような情報もいっぱいあった、いまだにあると思うんですけど、とにかく知りたいって思って見てましたね。

──東谷さんは今回どのような役をやるんですか?

東谷:これ以上ないってくらいのキーマンですね。

こんなにおいしい役をやったことないんじゃないかなっていうような(笑)。第一部においてということですけどね、第二部とかはまだ分からないので。これは谷とも話したんですけど、今まで出たお芝居でメインの役どころではないようなポジションにいて物語をかき回すとか何か火をつけるとかそういう役回りって結構やってる方だと思うんです。

でもそんなの目じゃないってくらい今回はキーマンだしおいしい役だから、とてもプレッシャーが高いんですよ。とてもでかいものを背負っているというか。これから稽古をしてどういう感じに着地するかわからないですけど、初めて台本を読んだ時に「こんな役やったことないな」と大げさじゃなく思いました。「こういう役を任せるんだな、俺に」と感じまして。自分が請け負ったことがないような役割を持っている人物というか。

多分、僕だけじゃなくて過去から繋がりのあるメンバーに対しては、ちゃんと新しい挑戦をさせていて、そこを乗り越えて初めて前に進んでいけるような、挑戦状をもらっているような感じですね。だからダルカラっていいなって思います。安全パイとか楽してできるようなことは一切ない。今までもずっとそうだったんですけど、やっぱりそういう意味でのプレッシャーはありますね。やりがいというか。

二年前のインタビューで何を話したかというのは具体的には思い出せないんですけど。二年経ってですね、僕はより芝居の難しさだったり深さだったりを感じていて。でもやっぱり、劇団員それぞれが二年間の経験値としては積んできているとは思うんですけど、そんなことで易々クリヤーできるような簡単なものはダルカラでは通用しない。もっと高いハードルなんだなと思ってます。

──今回、テーマが原発ということでちょっとハードルが高いのかなと思ったりもするのですが。

東谷:そうですね、高いですね。

色んな角度からのご意見を観客の皆様もお持ちでしょうからね。原発や震災のことだったりとか、あれ以降、劇作家の方が震災を扱った、あるいは震災から着想を得た戯曲を書くことも増えて、そういった作品に出演したこともありますが。今回ほど福島とか原発とかを真っ正面から扱ったものには出会わなかったですね。それまでやってきたそういう芝居が優しかったわけではないのですが、今回のは「芯をくわないと負ける」という感じが強いです。

──舞台は1961年だとお聞きしているのですが。

東谷:僕はまだ生まれていないんですね。両親もおそらくまだ出会ってすらいませんね(笑)。実際に体験していない世界を体験する。それこそ、やっぱり演劇の醍醐味のひとつですね。

──3.11を知ってしまっていて、その上で舞台上で悲惨さを知らない時間を過ごすわけですけど。

東谷:去年、ティーファクトリーというところのお芝居では、実際に防護服を着た作業員がそれを脱ぐ前に消毒しあうシーンがあったりして。ぼく自身はアンドロイドの役で、人間とロボットが共存している世界の、あくまで架空の未来の話というフィクションでした。今回は、フィクションなんですけど、限りなくノンフィクションに近いというか、なのでそれをやるギリギリのスリルはありますね。怖いことだなって思うし。

──それが観てる人にとって真実になっちゃう怖さというか。

東谷:ただ、実在の人物が殆どモデルになっているらしいので、安易にフィクションだって考えられない所もありますし。

──最後にみなさんへのメッセージをどうぞ。

東谷:まずは今回、初めて出てくれている若者のキラキラさ(笑)。素敵だなって本当に思うんですよ。そういう風に思うってことは、僕も歳を重ねたってことだと思うんですけど。そんな風に無邪気にキラキラできないんだなって思うと同時に、目の前で若い俳優が躍動しているのを観ているとすごく気持ち良いんですよね。だから上演をご覧になる方々は、それをその場で体験することになると思うんです。

あとは、立場的に僕が若手ではない(笑)もう30も超えてますし。もっと上の40代のメンバーもいて、そういう青春真っ盛りみたいなことはもうできないだろうけど、それを経て生き続けてるから今こうなってるんだよって、身体というかそういう姿を舞台上でさらけ出すことになると思うんですけど、かといって若い人たちとベテランたちがバチバチ戦うお話ではないんですが、そういう違いのある役者たちが舞台空間で混ざり合って、どういう熱が生まれるのか。

原子力の発生じゃないですけど、そういう熱量みたいなものが舞台の一番の魅力じゃないかなと思っていて、それを見せられるお芝居にしたいですね。ちっちゃい子でも年取った人でも、その人なりの情熱みたいなものをぶつけながら生きていく。そんな人間具合みたいなものをお見せできる舞台にしたいなぁと思います。

大原研二インタビュー

──早速ですが、自己紹介をお願いします。

大原:ダルカラの大原研二(おおはらけんじ)です。30……いきなり嘘ついたなあ(笑)43歳に最近なりました。2年の劇団のブランクですけど、活動再開ということで2年の間を空けている間に43歳になりました。

今後も精進していく気満々で気持ちは新人のつもりでやっていきたいと思います(笑)。どうぞ、宜しくお願いいたします。

──ダルカラ、再開してみての感想はいかがですか?

大原:あっという間だったなという感じです。

福島三部作の構想みたいのは活動休止時点で谷の口からは聞いていた記憶があるので、谷もずっと取材をしてて今回上演するという形になるまでに2年かかったという感覚の方が近い感じがします。この作品をダルカラ再開公演としてやるかどうかその時点では決まってなかったですけど。

でも勝手に何か2年くらいかなっていう、何となくの感覚もあったし、そういう意味ではあっという間で……むしろ何かもうちょっといろいろやってからでも良かったぐらいの感覚ではあります。

──今回の稽古に入る前に、ダルカラの皆さんで集まったりしていたのですか?

大原:休止中は本当に……そんなにないですよ。そういう機会は。1、2回あったかな? というぐらいですね。だから稽古場にというのはもちろん2年ぶり。でもだからといって、ものすごく新鮮な感じがするということもないですね。

むしろ「あーっ!」こんな感じだよねという。うん。居心地はいいです。ほんと古巣に戻るという。古巣っていうほど間が空いている感じではないですけど。しばらくぶりですがそういう意味ではホーム感は僕だけでなく劇団員はあるんじゃないですかね。

──今回の作品は東日本大震災が背景にありますが、2011年3月11日は何をしていましたか?

大原:ダルカラやる前で、とある現場の演出助手というか。基本的に演出が現場にいられないからほぼ丸投げで助手と言いながら、がっつり現場に居続けて演出の意図を受けて演出をつけるみたいな仕事でお台場のスタジオにいたんですよ。そこが最新型の耐震構造の建物で揺らして揺れを逃がすタイプでものすごーく揺れたんですよ。周りの建物もそういう造りになっているものが多くて窓の外に見える建物も、ものすごい揺れ方をしているから恐怖は半端なかったですね。

まあ知識としてはありましたけど「ありえないでしょ」というぐらい揺れていたんで、その時はその場がそれだけ揺れているから東北がとか分からなかったんですよ。先ずはやばい! 地獄だ! と思って外に避難して、ゆりかもめ(お台場の交通機関)は尋常じゃない揺れ方しているしお台場近辺、火事になったんですよ。最初は、他の心配するより、やばい! これはやばい! って言うのでいっぱいでしたね。

これが震源が東北で、ものすごいことになっててというのは後から入ってきた情報でした。結局僕たち、お台場から出られなくてフジテレビのクロークに泊まることになって一夜そこにいて、流れてくるニュースと報道関係者が局を右往左往している中にいたんです。

で、ずっと実家と連絡が取れるまでちょくちょく電話かけにいき安否確認をしてましたね。東京の自宅には次の日にお台場から車が出られるようになって帰りました。実家は早い段階で福島を出ていて、秋田の方まで一時ちょっと避難して連絡は取れたんで一安心だったんですけどね。

後はどうすることも出来ない中でどうなるか分からないですけど、舞台を一緒に作っている人たちといたんで芝居の話をしていました。その作品、さぁどうしましょう?とか、こうだと思うんですよ! とかっていう話。結局、会場自体が使えなくなって出来なくなってしまったんですけど、ただある時点から開き直って芝居の話・舞台の話をキャストの人としてましたね。入ってくる情報もお台場出るのが大変なぐらいだったので、でも実家が心配だとしても実家には行けないという話は入ってきてたんで。僕、南相馬出身なんで、まさになんですけど。

あの日はそんな1日でしたね。

──その後、実家に帰られたのは?

大原:実家自体はちょっと後ですね。母親が避難をしていて、実家には誰もいないという状態になっていたので。母親が東京の僕のところに避難してくるという算段をたてて、ただ実家に猫を置いてきちゃって連れて東京に行きたいというから、何とかガソリンとかを入手して途中で猫を回収しながら東京に出てきて、1か月ぐらいですかね、しばらく避難していて。

原発から20キロ圏内まで入れないとなって、僕の実家がだいたい22キロぐらいなんですよ。だから、行けるということが確認出来てから、やっぱり母親も戻りたいって言って戻ったんですよ。それまでは戻れなかったし、母親もこっち来ていたんで戻る理由も、ちょっとなかったんで結構経っていましたね。結局、実家には1か月ぐらい経ってから帰りましたね。

──戻った時に現地を見てみて、何か思ったことはありますか?

大原:思ったことは、まあちょっとうーん、言葉にするのは難しいですよね。ただただ驚愕、ウソだろという光景ばっかりだったんで、何もかもがですね。そしてその僕の実家が22キロぐらいなので、いろいろ重機が入って作業するというにも安全が確保出来ているのかどうか、なかなかGOが出せないエリアなんです。もう本当手付かずで津波の影響も地震の影響も手付かずみたいな状態だったんで、その時は何もかもが驚愕するしかない光景が広がっている感じでしたね。

今思うと、そうですね。今戻って見ている風景とかもその時はちょっと想像も出来なかったですね。

──原発とか震災を扱っている作品に出演することについて、ご自身のなかの思いを伺えますか?

大原:劇団員なんで、構想の話を聞いていたりしていたんで、そのなかでも扱っているものが福島であり相双地区っていう、僕の住んでいた南相馬含めた相双地区の原発に近いエリアの話ということは分かっていたし、当然原発というのを扱うということは聞いていましたけど。

そもそも芝居の構想として原発がどうだこうだという話というより、1961年当時の日本であったり社会であったり、資本主義社会の構造とかであったり、現代の状況に結果としてなってしまった。そういうことになる土台というか、つまり原発が誘致されて出来上がってどういう流れのなかに生きていた人達が、何を考えてどういう風に生きようとしてこの歴史に繋がっていたのか? そんな舞台をやるんだろうと最初に話を聞いて思っていたので、正直原発のことをやるというよりは、うーん、そういう意味では普段と変わらない人間が生きていく姿を観ていただくというか。

みんな人はそれぞれ幸せになりたいと思っていて、そのたくさんの人たちの思いとかそういうのが原発誘致の背景にあるわけで。そのなかで、どういう風な心境や心情や環境にあったのだろうということや、当時生きている人間の姿を観てもらうというか、それこそ演劇ならではのチカラの魅せどころだと思うし。今それを観てもらうことによって、3.11を知っている私たちに届くもの、一緒に考え感じてもらうことが要になる作品だろうなというふうに思いが巡っています。

何か自分が福島南相馬出身だからというよりは、一緒にやるキャスト・スタッフ、関わってくれる人々、観にきてくれる人たちと共有するうえで、ものすごく価値のあるというかダイレクトに僕たちも観てもらう人たちの心情的な部分を、おそらく動かせるであろうことがたくさんあるはずで、そこに貢献したいという気持ちですね。

何ですかね、何か東北とかそういうことは考えてないし、何か訴えたいというよりは今この話を扱うというのはものすごく僕たちが生きていく世の中にダイレクトに結びついているというのが、とっても刺激されるんですね。そこに魅力を感じて、ダルカラでやるんですけど。いち演者としてやりたいと思っていた作品だし、それがやれてすごいやりがいを感じる反面、観ている人の心情を刺激できなかったら、これ全く意味のない作品になってしまうものだというプレッシャーも感じています。

──今回の大原さんの役について、先日の取材報告会の時に台本をみて困惑したと言っていましたけど、ご自分の役のことですか?それとも台本全体的に?

大原:台本全体も、けっこうありますね。どちらかと言うと、ここって切り取るよりは「あーっこう来たか」ということと、あとは個人的に本を読んだ上では不可能じゃないかと(笑)。普通、やり方が何となくイメージがあるであろうものを作家であり演出家であるとちょっと考えてしまうもので、谷氏にもたぶんあると思うんですけど。

こんなに本を見て一切考慮してねえなということとかが、平気で書かれていたり、驚愕するポイントがちょいちょいありまして。

──舞台上でこれはどうなるんだろうな、みたいなことですか?

大原:そうですね。実際、現実世界のなかで考えてどうやるのであろうとかちょっと予測がつかない。大概やってきたんで、だいたい方法論的にこういう風にやったりすればみたいな方法論的なことが初見で読んで分かるようになってきているんですけど。分かんなかったですね。

例えば、展開的に普通に喋る順番を、この人が喋ってっていうセリフの流れがあるなかで、こいつ喋って、次にこいつ喋るみたいなのがありえねえだろうってことが(笑)起きていたりとか。あとこのシーンと、このシーンはどう繋がるんだろうとか。

パッと思いつかないであろうということが、平気で書かれていたりすることもあり、あーあー、なるほどなるほどという、それもちょっとダルカラやっているなという感じがしちゃうな。そう感じちゃうところも何か、何っすかね、変にドMみたいになっていて(笑)、おっかないんですけど。

まあ、これから立ち上げていきながら、そこも楽しみながら、いまやっているんで。

──いままで3人インタビューして、皆さん「自分の役はやりがいがある、今までやったことのない役です」っておっしゃってたんですけど。大原さんはどうですか?

大原:やったことないというか、どうかなあ。ダルカラではかなり色々やらされているんで、あんまりやったことないと思うことはないかな。どちらかというと、僕の印象だと谷的に「やったことがないだろう」っていうより「こんなことを書いてみたんで、やって」みたいな感じで渡されている感があるなぁ(笑)。

常にどちらかというと、こんなのやったことないからおもしろいと思うんだよねーというノリが、ダルカラやり始めた序盤ではあった気がするんですけど。最近になってくると「どうやったらいいか分からないけど、やって」という無茶ぶり感(笑)、個人的にはそういう感が強くなってきている気がするんで、そういう感覚ですかねー。

やったことないというよりは僕自身が、「さあて、どうやろう、どうやったらいいんだろう」というところから入る感じが……。

──もちろん誰もやったことのない役ではあるんですよね?

大原:まあ、でしょうね。というか分からないですけど、やったことあるかないかは想像つかないですけど。まあ普通に考えたら、やらせることはないという感じ(笑)。うまく説明できないですねー。

──今ので十分期待が膨らみます。

大原:分かんないですもん、だって、こんなに目算が経ってないのも珍しいぐらいです(笑)。

──稽古はあとどれくらいですか?

大原:三週間あるかないかですね。でもいつもだいたい何だかんだ稽古やっている最中に、突然の方向転換とかにより対応していくみたいな、ダルカラではよくあることなんで、そんなに不安ではないです。

──今回メンター制度みたいなものがありますけど、大原さんはどなたか担当されているのですか?

大原:僕、宮地担当です。僕が、今回地元でネイティブということもあって方言的な、もちろん方言指導の方がいらっしゃるんですけど。実際、こうやりながら地元だどこういうふうに言うみたいな感じとか含めて、ある程度みんなの稽古のアシストみたいな感じですね。

ほぼ全員訛りを話すんで、宮地のメンターというより、いろいろな人の、もはや誰のという感覚がないですね。初日からメンター制度と言われたけど、全員とほぼほぼ長い時間、顔をつき合わせて方言の話とかしているんで。

──若者たちが皆さん、なかなか面白そうな人たち、素直な感じですね。

大原:そうっすねー、何かハートがある感じが、結局それが一番ですからね。

──オーディションの時って大原さんは見られたのですか?

大原:僕は行けなくて、どんな人がいて誰を取ったのか? 本当にプレ稽古まで分からなかったです。キャストが発表されて名前だけは先に知ってたいたのかな? 実際に逢ったときがプレ稽古のときなんで、ほんとに分からなかったです。

──結構な人数のなかから勝ち残ってきた人たちなんですよね?

大原:そうです。それに関しては誇っていいんですよね。

──最後に観客の皆さんへのメッセージをお願いします。

大原:まあ、またおもしろいものが出来そうです、いろんな意味で。

ダルカラらしいところも含まれつつ、ほんとに演劇のいろいろな要素がギュッと入ってて。しかも色んなおもちゃ箱のおもちゃを集めてきてってわーっていうよりは、このお話が三部作の第一部としてもそうだし、ひとつの単体としての作品としてもそうですし、とても演劇的にさっき言った「ここで生きてきた人々の話」が、しかもこれが50年にわたって進んでいく話のスタートになるんでね。とてもおもしろい構成だったり、お話だったり、言葉だったりが散りばめられていて、とても完成が楽しみ、僕自身が楽しみな作品になっています。

いやーだから本当に自分自身もそうですけど完成がものすごく楽しみな分、そこに届かないと悔しくなるでしょうね。早く作りたい。いろいろな諸事情、美術を決めたりとか、道具とか衣装とか細かいまわりの設定とかが、どうなっていくのか? とか決まっていかないと完成というか作りこんでいけないので、まだその過程にいるのでしょうがないですが、明日出来ていたら観たいですね。

明日出来上がっているなら観たい感じです。なんですけど、自分たちがやらないと観れないので、自分たちがやっていると観られないというのもあるんですけど(笑)。正直完成が観たい気持ちが、すごく強い作品です。

なので、いいなあ、皆さんは観れるんですよね、きっと(笑)。僕は観れないです(笑)、完成しても、完成すればするほど、客席には行っちゃいけない人になるので観れないです。

存分に僕が羨ましがりたいと思うんで楽しみにしていてください。