木下祐子インタビュー

ーー故郷についての思い出を聞かせてください。

私は故郷がないんですよ。生まれは九州の小倉なんですけど、幼稚園までしか居なくて。その後も和歌山へ移って次は千葉県の佐倉市で次は幕張でその後も自分で転々としてるんです。父親が転勤族だったので一つ所に2、3年しか居なくて、友達もその度に変わるような環境でした。

ですから故郷と呼ぶとすれば、父方母方其々の祖父母が住む土地となりますかね。父方は名古屋で私が物心が着くころには先進的な夜の町も遊べるような故郷。母方は岐阜の山の中で大きな川の流れているとても牧歌的な故郷でした。

私の精神がそこに根ざしているわけではないので将来住みたい!というのは残念ながら無いです。だから「自分の故郷はここだ」と言える友達を見てると、うらやましくなりますね。「小さい頃からコイツとは縁があってさ」とか「小さい時に一緒にこんなイタズラしたね」とか言い合う友人が居ないので、それは少し寂しいなぁとは思いますね。

ーー25年前は何をしていたか覚えていますか?

じつは北海道にいたんですよね。学校を一年休学して、帯広の牧場で住み込みのアルバイトをしてました。ゴールデンウィークから10月までお世話になって、その後、北海道をぐるーっと一周して実家の千葉に帰ってきたものの、またそこから今度は西表島に2ヶ月ほどアルバイトに行っちゃったんですよね(笑)。で、西表で友達になった人たちと北海道へ行ったら、案の定全員風邪ひいて、それで千葉に帰ってきたみたいな良くわからないことしてました(笑)。

ーー引っ越しが多かったから土地が変わることには抵抗がないんですかね?

そうですね。何かあったら土地を変えればいいって考えが私にはあったみたいですね。周辺が変われば、嫌なことからも脱却できると思ってたので、心がもがいていたり苛められたりしても「環境を変えればいいんだ」って思って精神を保ってたのかも知れませんね。

ーー演劇以外で何か一つ好きな物を挙げるとすると?

うーん、ぱっと思い浮かばないんですけど。……演劇って一般人にはなじみがないでしょ、実家に帰ったりすると「あの子は定職にも着かないで」とかって言われがちじゃないですか。「結婚もしなくて何やってたの?」とか。そこで「演劇やってたんです」っていうと、「……演劇ってなぁに?」ってなっちゃうので。何かわかりやすい、肩書きが欲しいなと思って、考えたあげく着付けの免状を取ったんです。着物は見るのも着るのも好きだったので。

演劇とか芸術とかに社会的価値を見出してくれない人を相手にした時に、イメージがわかる仕事であり、社会的な名札がついて、って何かなあと思って行きついたところが「着付けの免状を取ること」だったんですよ。師範だと看板もらえるし(笑)。まあでも簡単に免許と言ってもそれなりにお金も時間もかかる訳だから、やっぱりのめり込めるくらい好きなことじゃないと続かないとも思ったんですよね。

だから演劇以外だと着物かな。ゆくゆくは若い子達に着物の良さを伝えたり、ちょっとした教室なんかも出来たらいいなと思っています。

ーー2011年の東日本大震災について何が一番記憶に残ってますか?

「恐怖」ですね。「あっ、死ぬかも知れない」って初めて思った恐怖です。普段人間って周りの人が亡くなっても、理屈として「人は死ぬんだな」とは感じるし考えるけれど、「あっ、いま私死ぬかも知れない」とは思わないじゃないですか。それがあの時は、凄く切迫感を持って「今そこにある危機」とか「自分の死」とかを感じたんですよね。

福一が水素爆発を起こした時、窓閉めきって、換気扇も動かすか動かさないかって、そんなことまで皆で怯えていた事とか。そういう時に遠くにいる実家の父や母とどうやって落ち合おうとか。実際に避難しなければいけなくなったら「皆三々五々でいいから大阪の親戚の家な。」って電話で話して決めましたからね。「避難場所を家族で決める」なんてことも初めてでしたしね。そういう「そこにある危機」や「恐怖」を感じたことが、一番の記憶かな。