古河耕史インタビュー

ーー故郷の思い出を教えてください。

何回か引越しをしたんですけど、どの土地にも空き地とか竹薮とか森があったのでそこを探検するのが好きでしたね。

ーーいつか故郷に帰ろうという気持ちはありますか?

そうですね……。演劇というか役者業をやってると、やっぱりなかなか実家の方でやるのは難しいと思いますね。とはいえ、経済的に厳しくなったり体壊したりしたら、帰ってちょっと違う生き方考えるかなぁみたいな可能性はあると思います。でもこれだけ情報通信が進んだ時代になってますし、今まで住んできた土地は自分に所縁がある土地だなぁと思うので、そういう土地がどんどん増えていけばそこを繋ぐような形で演劇が出来たらいいなぁって思いはありますね。

ーー25年前は何をしていましたか?

25年前は小学生で、結構熱くて厳しい先生が担任になったんです。ある時、宿題をやりたくなくてぐだぐだぐだぐだ夜を過ごしちゃって、朝になっても全然出来てなくて。言い訳ができるレベルじゃないくらい出来てなかったんで、親に「絶対学校行きたくない!」って言ったんですよ。そうしたらすっごいどやされて、引きずって学校連れてかれて謝罪しながら泣いてましたね(笑)。

ーー(笑)。今になっても時々思い出すくらいの?

思い出せますね。多分、人生初の男泣きをしました(笑)。「申し訳ありませんでした!!」みたいな(笑)。そういう泣き方したことはそれまでなかったと思います。

ーー25年後は何をしていると思いますか?

俳優と演劇をやれてたらいいなぁと思ってますが、いろいろそう簡単じゃないなぁとも思うんで、もしそれでも演劇を続けられていたら、お仕事もらってやるのとはまた違うところで、劇場を飛び出すような企画をやっていきたいなぁっていう思いはありますね。

--それは野外公演ですか? それとも劇場以外の建物で上演するという意味ですか?

数年前まで訪問演劇団みたいなの(ゆかいピエロ団)を創ってやってたんですね。それは十数年続いたんですけど、ちょっとお休みしちゃったんで、その延長でやりたいなぁっていうのはずっとあって。劇場に来られない人とかあまり足を向けない人たちの方に、こっちから出かけて行って演劇をやってみたいですね。

ーーそう思うきっかけは何かあったんですか?

子どもの頃に、同じクラスにいわゆる障害をもった子と言われる子がいて、なんだかんだその子たちと何かやってるのが好きだったんですよ。そういうのが積み重なったんですかね。学生時代の友だちで盲学校の先生になった子もいて、「じゃあ盲学校行って演劇やるよ」っていうこともしてました。

ーー演劇以外でひとつ好きなものをあげるなら何ですか?

演劇に全く関係ないことで言うと読書です。子どもの頃は学校の図書室とか全く行かない子だったんですけど、いつからか読書が好きになって名作とか名著と呼ばれるような作品を見つけてきては何ヶ月かかけて読んでます。

ーー好きな作家や好きなジャンルはありますか?

時期によって移っていくから特にこの人ってずっとあるわけじゃないんです。次の舞台でどういう作品に関わるかがわかると、それが刺激になって本を探してみたりするので、社会科学系・人文科学系の書籍も読みますし、哲学書みたいなのも読みますし。最近だと、石牟礼道子さんの「苦界浄土」三部作をこの(福島三部作の)稽古に入る前に読み終わって「よっしゃ!」と思ってました(笑)。

ーー東日本大震災で一番記憶に残っていることを教えてください。

その日は東京でお芝居の稽古をしていて、廃校を利用した稽古場の3階の一番隅の部屋にいました。そうしたらすごい揺れが来て一回外に避難した方がいいってなったんですけど、廊下といい階段といい、舟みたいに波打ってて。そこから何日か家にいて、原発が爆発したこととかはやっぱり衝撃でした。これはとんでもないことになるんじゃないかっていう気がして、パニックになったらどうしようってそれが一番怖かったですね。当時は連日のようにひどい状況の映像とかTVで流れていて、見るしかないんですけど、見ては泣いてましたね。ぽろぽろぽろぽろ。

ーー福島三部作へのオファーがあった時にどう感じましたか?

もちろん!(笑)出ることに迷いはなかったです。第一部を観て、二部・三部はどんな話になっていくんだろうなぁっていうのが全くわからないまま「どう?」って誘われて。もちろんワクワク感もありましたし、こっちもちゃんと覚悟決めていかないと怒涛の稽古、怒涛の台本だったりした時に、腹の決まらないまま言われたことだけやってるみたいになるのは違うよなぁって思いましたね。