大原研二インタビュー

──早速ですが、自己紹介をお願いします。

大原:ダルカラの大原研二(おおはらけんじ)です。30……いきなり嘘ついたなあ(笑)43歳に最近なりました。2年の劇団のブランクですけど、活動再開ということで2年の間を空けている間に43歳になりました。

今後も精進していく気満々で気持ちは新人のつもりでやっていきたいと思います(笑)。どうぞ、宜しくお願いいたします。

──ダルカラ、再開してみての感想はいかがですか?

大原:あっという間だったなという感じです。

福島三部作の構想みたいのは活動休止時点で谷の口からは聞いていた記憶があるので、谷もずっと取材をしてて今回上演するという形になるまでに2年かかったという感覚の方が近い感じがします。この作品をダルカラ再開公演としてやるかどうかその時点では決まってなかったですけど。

でも勝手に何か2年くらいかなっていう、何となくの感覚もあったし、そういう意味ではあっという間で……むしろ何かもうちょっといろいろやってからでも良かったぐらいの感覚ではあります。

──今回の稽古に入る前に、ダルカラの皆さんで集まったりしていたのですか?

大原:休止中は本当に……そんなにないですよ。そういう機会は。1、2回あったかな? というぐらいですね。だから稽古場にというのはもちろん2年ぶり。でもだからといって、ものすごく新鮮な感じがするということもないですね。

むしろ「あーっ!」こんな感じだよねという。うん。居心地はいいです。ほんと古巣に戻るという。古巣っていうほど間が空いている感じではないですけど。しばらくぶりですがそういう意味ではホーム感は僕だけでなく劇団員はあるんじゃないですかね。

──今回の作品は東日本大震災が背景にありますが、2011年3月11日は何をしていましたか?

大原:ダルカラやる前で、とある現場の演出助手というか。基本的に演出が現場にいられないからほぼ丸投げで助手と言いながら、がっつり現場に居続けて演出の意図を受けて演出をつけるみたいな仕事でお台場のスタジオにいたんですよ。そこが最新型の耐震構造の建物で揺らして揺れを逃がすタイプでものすごーく揺れたんですよ。周りの建物もそういう造りになっているものが多くて窓の外に見える建物も、ものすごい揺れ方をしているから恐怖は半端なかったですね。

まあ知識としてはありましたけど「ありえないでしょ」というぐらい揺れていたんで、その時はその場がそれだけ揺れているから東北がとか分からなかったんですよ。先ずはやばい! 地獄だ! と思って外に避難して、ゆりかもめ(お台場の交通機関)は尋常じゃない揺れ方しているしお台場近辺、火事になったんですよ。最初は、他の心配するより、やばい! これはやばい! って言うのでいっぱいでしたね。

これが震源が東北で、ものすごいことになっててというのは後から入ってきた情報でした。結局僕たち、お台場から出られなくてフジテレビのクロークに泊まることになって一夜そこにいて、流れてくるニュースと報道関係者が局を右往左往している中にいたんです。

で、ずっと実家と連絡が取れるまでちょくちょく電話かけにいき安否確認をしてましたね。東京の自宅には次の日にお台場から車が出られるようになって帰りました。実家は早い段階で福島を出ていて、秋田の方まで一時ちょっと避難して連絡は取れたんで一安心だったんですけどね。

後はどうすることも出来ない中でどうなるか分からないですけど、舞台を一緒に作っている人たちといたんで芝居の話をしていました。その作品、さぁどうしましょう?とか、こうだと思うんですよ! とかっていう話。結局、会場自体が使えなくなって出来なくなってしまったんですけど、ただある時点から開き直って芝居の話・舞台の話をキャストの人としてましたね。入ってくる情報もお台場出るのが大変なぐらいだったので、でも実家が心配だとしても実家には行けないという話は入ってきてたんで。僕、南相馬出身なんで、まさになんですけど。

あの日はそんな1日でしたね。

──その後、実家に帰られたのは?

大原:実家自体はちょっと後ですね。母親が避難をしていて、実家には誰もいないという状態になっていたので。母親が東京の僕のところに避難してくるという算段をたてて、ただ実家に猫を置いてきちゃって連れて東京に行きたいというから、何とかガソリンとかを入手して途中で猫を回収しながら東京に出てきて、1か月ぐらいですかね、しばらく避難していて。

原発から20キロ圏内まで入れないとなって、僕の実家がだいたい22キロぐらいなんですよ。だから、行けるということが確認出来てから、やっぱり母親も戻りたいって言って戻ったんですよ。それまでは戻れなかったし、母親もこっち来ていたんで戻る理由も、ちょっとなかったんで結構経っていましたね。結局、実家には1か月ぐらい経ってから帰りましたね。

──戻った時に現地を見てみて、何か思ったことはありますか?

大原:思ったことは、まあちょっとうーん、言葉にするのは難しいですよね。ただただ驚愕、ウソだろという光景ばっかりだったんで、何もかもがですね。そしてその僕の実家が22キロぐらいなので、いろいろ重機が入って作業するというにも安全が確保出来ているのかどうか、なかなかGOが出せないエリアなんです。もう本当手付かずで津波の影響も地震の影響も手付かずみたいな状態だったんで、その時は何もかもが驚愕するしかない光景が広がっている感じでしたね。

今思うと、そうですね。今戻って見ている風景とかもその時はちょっと想像も出来なかったですね。

──原発とか震災を扱っている作品に出演することについて、ご自身のなかの思いを伺えますか?

大原:劇団員なんで、構想の話を聞いていたりしていたんで、そのなかでも扱っているものが福島であり相双地区っていう、僕の住んでいた南相馬含めた相双地区の原発に近いエリアの話ということは分かっていたし、当然原発というのを扱うということは聞いていましたけど。

そもそも芝居の構想として原発がどうだこうだという話というより、1961年当時の日本であったり社会であったり、資本主義社会の構造とかであったり、現代の状況に結果としてなってしまった。そういうことになる土台というか、つまり原発が誘致されて出来上がってどういう流れのなかに生きていた人達が、何を考えてどういう風に生きようとしてこの歴史に繋がっていたのか? そんな舞台をやるんだろうと最初に話を聞いて思っていたので、正直原発のことをやるというよりは、うーん、そういう意味では普段と変わらない人間が生きていく姿を観ていただくというか。

みんな人はそれぞれ幸せになりたいと思っていて、そのたくさんの人たちの思いとかそういうのが原発誘致の背景にあるわけで。そのなかで、どういう風な心境や心情や環境にあったのだろうということや、当時生きている人間の姿を観てもらうというか、それこそ演劇ならではのチカラの魅せどころだと思うし。今それを観てもらうことによって、3.11を知っている私たちに届くもの、一緒に考え感じてもらうことが要になる作品だろうなというふうに思いが巡っています。

何か自分が福島南相馬出身だからというよりは、一緒にやるキャスト・スタッフ、関わってくれる人々、観にきてくれる人たちと共有するうえで、ものすごく価値のあるというかダイレクトに僕たちも観てもらう人たちの心情的な部分を、おそらく動かせるであろうことがたくさんあるはずで、そこに貢献したいという気持ちですね。

何ですかね、何か東北とかそういうことは考えてないし、何か訴えたいというよりは今この話を扱うというのはものすごく僕たちが生きていく世の中にダイレクトに結びついているというのが、とっても刺激されるんですね。そこに魅力を感じて、ダルカラでやるんですけど。いち演者としてやりたいと思っていた作品だし、それがやれてすごいやりがいを感じる反面、観ている人の心情を刺激できなかったら、これ全く意味のない作品になってしまうものだというプレッシャーも感じています。

──今回の大原さんの役について、先日の取材報告会の時に台本をみて困惑したと言っていましたけど、ご自分の役のことですか?それとも台本全体的に?

大原:台本全体も、けっこうありますね。どちらかと言うと、ここって切り取るよりは「あーっこう来たか」ということと、あとは個人的に本を読んだ上では不可能じゃないかと(笑)。普通、やり方が何となくイメージがあるであろうものを作家であり演出家であるとちょっと考えてしまうもので、谷氏にもたぶんあると思うんですけど。

こんなに本を見て一切考慮してねえなということとかが、平気で書かれていたり、驚愕するポイントがちょいちょいありまして。

──舞台上でこれはどうなるんだろうな、みたいなことですか?

大原:そうですね。実際、現実世界のなかで考えてどうやるのであろうとかちょっと予測がつかない。大概やってきたんで、だいたい方法論的にこういう風にやったりすればみたいな方法論的なことが初見で読んで分かるようになってきているんですけど。分かんなかったですね。

例えば、展開的に普通に喋る順番を、この人が喋ってっていうセリフの流れがあるなかで、こいつ喋って、次にこいつ喋るみたいなのがありえねえだろうってことが(笑)起きていたりとか。あとこのシーンと、このシーンはどう繋がるんだろうとか。

パッと思いつかないであろうということが、平気で書かれていたりすることもあり、あーあー、なるほどなるほどという、それもちょっとダルカラやっているなという感じがしちゃうな。そう感じちゃうところも何か、何っすかね、変にドMみたいになっていて(笑)、おっかないんですけど。

まあ、これから立ち上げていきながら、そこも楽しみながら、いまやっているんで。

──いままで3人インタビューして、皆さん「自分の役はやりがいがある、今までやったことのない役です」っておっしゃってたんですけど。大原さんはどうですか?

大原:やったことないというか、どうかなあ。ダルカラではかなり色々やらされているんで、あんまりやったことないと思うことはないかな。どちらかというと、僕の印象だと谷的に「やったことがないだろう」っていうより「こんなことを書いてみたんで、やって」みたいな感じで渡されている感があるなぁ(笑)。

常にどちらかというと、こんなのやったことないからおもしろいと思うんだよねーというノリが、ダルカラやり始めた序盤ではあった気がするんですけど。最近になってくると「どうやったらいいか分からないけど、やって」という無茶ぶり感(笑)、個人的にはそういう感が強くなってきている気がするんで、そういう感覚ですかねー。

やったことないというよりは僕自身が、「さあて、どうやろう、どうやったらいいんだろう」というところから入る感じが……。

──もちろん誰もやったことのない役ではあるんですよね?

大原:まあ、でしょうね。というか分からないですけど、やったことあるかないかは想像つかないですけど。まあ普通に考えたら、やらせることはないという感じ(笑)。うまく説明できないですねー。

──今ので十分期待が膨らみます。

大原:分かんないですもん、だって、こんなに目算が経ってないのも珍しいぐらいです(笑)。

──稽古はあとどれくらいですか?

大原:三週間あるかないかですね。でもいつもだいたい何だかんだ稽古やっている最中に、突然の方向転換とかにより対応していくみたいな、ダルカラではよくあることなんで、そんなに不安ではないです。

──今回メンター制度みたいなものがありますけど、大原さんはどなたか担当されているのですか?

大原:僕、宮地担当です。僕が、今回地元でネイティブということもあって方言的な、もちろん方言指導の方がいらっしゃるんですけど。実際、こうやりながら地元だどこういうふうに言うみたいな感じとか含めて、ある程度みんなの稽古のアシストみたいな感じですね。

ほぼ全員訛りを話すんで、宮地のメンターというより、いろいろな人の、もはや誰のという感覚がないですね。初日からメンター制度と言われたけど、全員とほぼほぼ長い時間、顔をつき合わせて方言の話とかしているんで。

──若者たちが皆さん、なかなか面白そうな人たち、素直な感じですね。

大原:そうっすねー、何かハートがある感じが、結局それが一番ですからね。

──オーディションの時って大原さんは見られたのですか?

大原:僕は行けなくて、どんな人がいて誰を取ったのか? 本当にプレ稽古まで分からなかったです。キャストが発表されて名前だけは先に知ってたいたのかな? 実際に逢ったときがプレ稽古のときなんで、ほんとに分からなかったです。

──結構な人数のなかから勝ち残ってきた人たちなんですよね?

大原:そうです。それに関しては誇っていいんですよね。

──最後に観客の皆さんへのメッセージをお願いします。

大原:まあ、またおもしろいものが出来そうです、いろんな意味で。

ダルカラらしいところも含まれつつ、ほんとに演劇のいろいろな要素がギュッと入ってて。しかも色んなおもちゃ箱のおもちゃを集めてきてってわーっていうよりは、このお話が三部作の第一部としてもそうだし、ひとつの単体としての作品としてもそうですし、とても演劇的にさっき言った「ここで生きてきた人々の話」が、しかもこれが50年にわたって進んでいく話のスタートになるんでね。とてもおもしろい構成だったり、お話だったり、言葉だったりが散りばめられていて、とても完成が楽しみ、僕自身が楽しみな作品になっています。

いやーだから本当に自分自身もそうですけど完成がものすごく楽しみな分、そこに届かないと悔しくなるでしょうね。早く作りたい。いろいろな諸事情、美術を決めたりとか、道具とか衣装とか細かいまわりの設定とかが、どうなっていくのか? とか決まっていかないと完成というか作りこんでいけないので、まだその過程にいるのでしょうがないですが、明日出来ていたら観たいですね。

明日出来上がっているなら観たい感じです。なんですけど、自分たちがやらないと観れないので、自分たちがやっていると観られないというのもあるんですけど(笑)。正直完成が観たい気持ちが、すごく強い作品です。

なので、いいなあ、皆さんは観れるんですよね、きっと(笑)。僕は観れないです(笑)、完成しても、完成すればするほど、客席には行っちゃいけない人になるので観れないです。

存分に僕が羨ましがりたいと思うんで楽しみにしていてください。