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猫の手とは、DULL-COLORED POPを応援する非営利・最強・史上唯一の団体です。

大内彩加インタビュー

──自己紹介からお願いします。

大内:大内彩加と申します。大きく内側に彩りを加えると書いて「おおうちさいか」です。本名です。福島県飯舘村出身で今24歳です。福島県飯舘村の『までい大使』と、世界四大ミスコンのミス・アースジャパンの福島ファイナリストで3位になりミス・ウォーターとして活動しながら東京で役者活動を続けている女です。

──『までい大使』とは何ですか?

大内:までいとは「真心込めて丁寧に」と言う福島の方言なんですね。飯舘村自体を活性化していったり、外に向けて飯舘村の色々な情報や内包されたもの、飯舘村の歴史を伝えていく人を応援するっていうのが、『までい大使』です。

──それは飯舘村独自のものですか?

大内:そうですね。飯舘村独自のものですね。そして、飯舘村出身の役者で『までい大使』なのは私だけでして、なおかつ東京で活動しているので、この東京で何か福島のために出来ることはないかなと思いつつ色々やってはいますが、一番やりたいことは芝居なので、芝居に絡めた活動が出来ればと思っています。

──芝居はいつ頃から演られてるのですか?

大内:ちゃんと芝居の勉強をし始めたのは、高校卒業して専門学校に通ってからですね。

──それは何かきっかけがあったのですか?

大内:芝居が楽しいものなんだって思ったきっかけが、ちょうど幼稚園生の時の遠足で『オズの魔法使い』を観に行った時ですね。そこでお芝居が終わって最後に園児たちを代表して壇上で好きなキャストに花束を渡せるっていうのがあって、幼稚園側が私は片親でかわいそうだからって理由で選んでくれました。そうしたらキャストの方がクルンって私のことをひっくり返して、壇上から客席に向かっての景色を見せてくれたんです。その時に舞台上からの照明のキラキラ具合であったりとか、お客さんの目であったりとかに感動して、こんなに素敵な世界があるんだって思ったことから「あっ、お芝居やってみたい」って思ったのが始まりです。

それからお笑い芸人になりたいとか声優になりたいとか、なんかしら表現者になりたいといろいろ迷いながらもやっぱり役者をやろうと思って。舞台でも映像でも声のお仕事でも、とにかくお芝居をやろうってずっと思い続けてて、高校を卒業してからしっかり演技を勉強する為にはどうしたらいいんだろうと考えて、専門学校に通いました。

──今回、ダルカラに参加することになったのはオーディションだと伺ってますが。

大内:オーディションを受けようと思ったきっかけは、やっぱり私は被災者……かつ役者なので福島を扱った題材には出続けよう! 出ていたいって思いがすごく強いんです。それで何か福島の芝居で今オーディションとか情報とか何かないかなって思って調べてる時に、ちょうど谷さんのクラウドファンディングの企画を見つけて。谷さんがこういう思いでこの芝居をやりたいって言う文章を拝見した時に「あっ! これだ! 私がやりたかったことはこれなんだ!」ってすごい思ったんです。ちょうどその時、佐々木蔵之介さんのリチャード三世だったり、デジモンアドベンチャーの舞台を控えていたり、谷さんがすごい活躍されている時期で。まだオーディションの情報とか一切出てなかったんで、きっと劇団員の方とか外部から人気のある役者さんを使うんじゃないかな、とは思ったんですけど……でも、ちょっと一発頼み込んでみようと思って(笑)。ちょうど「ふくしま再生の会」の活動に谷さんが関わっているのを知って、その会には東京大学大学院の溝口教授という方もいて。実は溝口教授とは『までい大使』の関係で何度もお仕事をしたことがあったので谷さんのお話を伺って、「私はこの作品にどうしても出たいです」って手紙を書いてみよう! と思ったんです。その矢先にオーディション情報が発表されて「はい! 運命!」っと思って(笑)。しかも、若手オーディションで「はい! 私若手!」っと思って(笑)。27歳以下だったんですね受けられるの…それで自分の年齢を再確認していけると思って、オーディションに応募したのがきっかけですね。

──すごいタイミングでしたね。

大内:すごいタイミングでした。手紙を書かずに済みました(笑)。書いてみても面白かったなとは思うんですけど……。

──実際に参加してみてどうですか?

大内:「あなたに出て欲しいと思っています」と言うメールをいただいて、谷さんにも面接していただいて、更に制作の小野塚さんに「本当に私出るんですか?」ってもう一回再確認して。「もちろんです。出ます。」って言われて「あっ、出られるんだ。」って感激して。ついに、チラシも発表されて「あっ! 私やっぱり出るんだ。」って、そこから稽古初日迎えるまで自分がこの作品に出られるってことが信じられなくて。本当に、本当に、一番出たかったものなんです。もちろん、これからも福島の芝居には出たいとは思い続けるんでしょう。

正直に言うと、3・11当時に高校生だった自分が報われるように活動しているところがあるんですね。なのでこの作品に出たら、あの時の私が少しでも報われるんじゃないかって思いもあって、それだけの理由ではないですが、この芝居に出られるってことが信じられないほど嬉しくて。

でも、実際に稽古通い始めて……もう九日目くらいになりますけど、「いや~~~本当に幸せものだな」っと思って楽しさしかないです。こんなに芝居って無限大の可能性を秘めてるんだと、ここの稽古場に毎日毎日来る度に本当に本当に楽しくって。もちろん諸先輩方であったり谷さんであったり若手の三人であったり制作の小野塚さんであったり、色んな方々の支えであったりご助力の上に成り立っているんですけど。「こんなに芝居って楽しいものなんだ。私本当に芝居好きなんだな。」って毎日毎日思わせてくれる現場です。この芝居をやっていて感じることは、とにかく多くの人に観に来てほしいということ。例えば芝居を観たことのない方であったり、福島のお話はちょっと……という方にも。あと舞台をよく観ている方。勿論、ダルカラ好きな方や好きなキャストがいらっしゃる方。そしてこの言い方すごく失礼ですけど、最近面白くない芝居を観た方、付き合いで舞台を観に行ってる方、役者関係でも多いんですよね、付き合いで行かなきゃならないとか付き合いで渋々観に行ってますという人。そうじゃなくて、私は「面白い舞台を観てほしいから」ダルカラをオススメします。付き合いとかそういうのは無しに、役者として、舞台というフィールドで戦う者としてこの作品を観てもらいたい。「芝居ってこんなにすごいんだぞ、面白いんだそ、心揺さぶられるんだぞ」っていうものを観てもらいたいって、こんなにも純粋に思える作品って久しぶりだなっていうくらいに楽しいです。とにかく楽しいです。

──東日本大震災当日の記憶について、もう少し聞かせてもらっていいですか?

大内:私は飯舘村の自宅から隣の南相馬市の高校に通っていました。ちょうど授業中でその時間もすごい覚えているんです。14時47分。それは何故かって言うと、数学の授業中で早く終わらないかなぁって思っていて。春から高校3年生になって放送部の全国大会を控えてて、自分の部活のために部長として何が出来るんだろう? どんな作品作りしよう? 何をしよう? って授業に集中もできなくって。

早く授業終って部活に行きたいとの思いでずっと時計見ていた時に、あれ? ってちょっとずつ揺れ始めて地震だってなったんです。みんなもあれ? あれ? ってなって……でも収まるだろうって思ってたらどんどんどんどん揺れが大きくなって、ものすごく揺れてそれで一回その大きな揺れが収まったんですよね。後から南相馬は震源地だったとわかるんですけど、その時は「すごい揺れたね」「今のなんだったんだろう」って、みんな机の下に潜ってたりしていて。そこで先生が焦ったのかどうかわからないんですけど、さぁ授業を始めるぞって立ちあがったんです。そして私だけ机の下から出てきて「はい!」って言って(笑)。座ったらまた大きい揺れがバン! ってきて、これは只事じゃないと思って。女の子たちは泣き叫んでるし、友達のことなだめるのに私も精一杯で、二回目の大きい揺れが止まった時、窓ガラスは割れてるわ、結構古い高校だったので天井は落ちてきてるわで大惨事になってて。これは一回外に出よう、と先生が指示を出してくれてみんなで外に避難したんです。でも、校庭も地割れ状態。何が起きてるかわからない。みんな携帯は持ってきているけど電波はつながらない。おまけに雪まで降ってきてすごく寒い状況で外でずっと待たされてた時、遠くで何かが爆発する音がして、しかも先生たちがすごい焦った声で津波が近くまで来てるって言って。私たちの高校から十キロくらいのところで津波がちょうど積止まって大丈夫だったんですけど、なんかこれは只事じゃない、と……。

一時間後にやっと家族に電話がつながって、お母さんに迎えに来てもらえないか? って言ったんですけど、家もぐちゃぐちゃだし家具も倒れてきておばあちゃんも死にかけたし……「今は迎えに行ける状況じゃない」って言われて。どうしようって時にちょうど飯舘村に帰る友達のお父さんがいて、飯舘村に帰る人はみんな一緒に帰ろうってなって、ようやく夕方の6時頃に飯舘村に帰ってきたんですけど、山道なので半分崩落してたりとかしてて帰るのも必死でした。

途中寄ったコンビニもその時には品物がないぐらいガラガラ状態で、地震が起きて三時間もたってないのにガラガラなんですよ。それぐらいの状態でようやく帰ってきたら飯舘村が真っ暗になってて。街灯もぽつんぽつんとしか立ってないですけど、民家もちらほらありますし当然電気ついてると思ったら何一つ電気がついてなくって。

私、その日バイトの日だったんですね。だから家の目の前のセブンイレブンにとりあえずバイトに行こうって思ったんです。真っ暗なのにね。真っ暗なのに日常を過ごそうとしていたんですね。バイト先に行ったら酒瓶とか全部ぐちゃぐちゃに割れてるし、そしたら店長さんが「さいかちゃん、今日大丈夫だから。お母さんのそばにいてあげて。」って言ってくれて。それで家に戻ったんだけど、家の中もグチャグチャだし電気はつかないし「とりあえずおばあちゃんは家の中にいるから、さいかとお母さんは今日は車の中で過ごせ」って。家は土壁だったのでボロボロ崩れてるし余震がひどくってずっと揺れてる状態で、その日は車の中で一夜を過ごしたんですけど、ずっと雪が降ってるので寒いし。寒い車の中、一緒に布団包まって。

私の家の前がちょうど大きな一本道が通ってるところだったんですね。停電して真っ暗になってる中、車のテールランプだけが光り輝いて。ずっと渋滞を起こしてるっていうような異様な光景を見ながら、「あ、ウォークマン持ってるやんけ。ラジオ聞けるやんけ」と思って聞いたんです。そしたら、東京も福島も大混乱。宮城は火災が起きてる。原発は爆発してる。津波で何千人って流されてるっていう悲惨な状況しか聞こえなくて。なんだ? これは? って、すごいことが今起きてるんだってはっきり実感して、「この日のこと絶対忘れちゃいけない」って思ったんですよね。絶対これは異常事態だし。その時にはもうすでに役者になりたいと思ってたので、絶対忘れちゃいけないし、これは永遠に私は語り継いでいかなくちゃなんないって。謎の使命感を持ちながら、とりあえず凍えてる母と一緒に今こういう状況なんだって……でも大丈夫だよ大丈夫って言ってたんです。そして東京のラジオだから、忍たま乱太郎の勇気100%とかアンパンマンのマーチとか流れてるんですよ。そういうの聞きながら「お母さん、大丈夫、大丈夫だよ」って言いながら3.11を終えました。

──ずいぶんしっかりしていたんですね。

大内:よく言われます。だからって言う訳ではないと思いますが、他の若手三人は比較的若い役どころで、若手の中でも私ひとりだけポツンとちょっと年の離れた大人枠をやってるのは、元からの妙な落ち着きがあるせいなのかなと感じつつ。愛を叫べない役をやってます(笑)。

──今回の作品と役についてもう少し話していただけますか?

大内:作品については、やっぱり一番最初懸念してたのが福島のお話ということで小難しい話であったりとか、観た人がこれは原発非難だとかなんか原発に関してうんたらかんたら、左翼・右翼とか、どうしてもそっちの政治的な話になるんじゃないかっていう懸念はあったんですよね。今まで自分自身福島の舞台に色々出てきましたけど、色んな感想を持つ人が居ていいとは思うんですけど、福島に対して変な誤解はして欲しくないなっていう思いがどうしてもあって。

ただ台本を見たときにその不安は一切なくなりました。いや、ホント天才だなと思って、こんなこんな面白く書いてくれたんだ。さすが! 谷賢一! ありがとう(笑)。青春群像劇だったり愛だの熱量だの情熱だのキラキラだのすごい詰まってるじゃないですか。これむしろ新しい福島が見られるんじゃないかと思って、福島の舞台の中でも新しい描き方をしているなーって思って本当に安心しました。だからこそ、今まで福島の舞台を敬遠して観るの控えているんだって人にも、ちょっと観てみない? 今回は……って。この舞台は別のアプローチからやってるよっていうのを言えるなと思っています。

──役柄としては他の若者たちとは独立しているということは、大人の役者と絡む機会が多いってことですか?

大内:私、自分の役いいな~って思うのが、どの役とも一度は絡んでるんですよね、大人とも絡むし子供とも絡む。ある一人の役を除いては。チーム若者との役での独立っぷりは半端ないですが、方言指導で本人達と関わっているので寂しさは感じていません(笑)。
谷さんが今日稽古で言ってたんですけど、大内がこの役を演ってるのが面白いって。実際は原発によって苦しめられて故郷を失った人間が、こんな役を貰えるなんて!って、舞台を観ていただければ分かるのですが私を知っている人からしてみれば凄いです(笑)。まさかのキャスティング。しかしそこが良い。こういうことがあるからこそ、芝居って面白いなぁ、役者の醍醐味だなあって思えるので、自分の役が本当に愛おしいです。

──演りやすい役って訳でもないんですよね?

大内:そうですね(笑)。やり甲斐のある役です! やり易さはあまりないです。面白みはすごい詰まってます。特に今日稽古していた7景。舞台のネタバレにならないようにしますが、自分の仕事について、ものすごく誇りをもっている人だと思うんですよね、この人は。知識量もすごい、そもそも1961年当初の時代背景から考えてみても、女性でこの若さでこのキャリア、只者じゃない。とは言いつつも、私個人は被災者ですし、結末を知ってるからこそこの役を演じるにあたって難しいな、ここどうしようかな、と思うところもあります。ただ、私は政治的観念からとかそういうのは全く関係無しに、今の日本には原発必要じゃんって思ってしまいます。原発事故がおきて故郷を失った女であろうと、原発による電力エネルギーで生活している人たちがいて、それでお金を貰ってる人たちが今現状いるのであれば、それをすべて否定することはできないって、そこは割り切っているので。当時の人たちの想いを背負って、この芝居に向き合いたい。つまり私が頂いた役はやり甲斐だらけで、その壁を乗り越えながら本番を迎えるのは、役者の醍醐味だなと思います。

──では、最後に観客の皆さんへのメッセージをお願いします。

大内:芝居の無限大の可能性を感じる作品になってるので、この歴史的瞬間を、福島県民としても被災者としても、そして役者としても見逃してほしくないと思ってます。福島の現在、当時を描く作品・舞台が多い中、今回の福島三部作第一部は非常に面白いことに、福島の過去を描いた作品です。フィクションとノンフィクションの狭間にあるような作品。どうか、どうか観に来て下さい。そして、新しい「福島」を観ていただければ幸いです。

丸山夏歩インタビュー

──自己紹介からお願いします。

山:丸山夏歩(まるやまなつほ)と申します。26歳の一人っ子です。東京都出身で幼稚園入るくらいまでは兵庫県西宮市に住んでて、そこからはまた東京に住んでます。大学から演劇を始めて四年間やったんですけど、一度社会人として広告代理店で働いてまた演劇に戻ってきました。

──なぜ広告代理店だったんですか?

丸山:なにかクリエイティブな仕事がしたかったんです。実際は営業でしたがクリエイティブな仕事に関わってるし、包括的にいい経験でした。でも、演劇とどっちがやりたいかって考えた時、生意気な言い方に聞こえてしまうかもしれませんが、今の仕事にこの先のビジョンが見えないなと思って、演劇に戻ってきました。

──ダルカラに参加してみてどうですか?

丸山:もちろん、ダルカラの存在は知っていたんですけど、いつもタイミングを逃してしまって観たことはなくって……。でも、どうやら高校の先輩がダルカラの劇団員(中村梨那)らしいってことを知って、それがフックになって谷さんのオーディション募集のツイッターを見つけた時、速攻で応募しました。

どうやら面白いらしい、自分もそれに挑戦してみたいし食らいついていきたいしって気持ちで臨んだんですけど、意外と緊張しいでザワザワが止まらなかったですね。諸先輩方から吸収することが沢山あって、先輩をどう見るかといったこと一つとっても学ぶことだらけで毎日ヘトヘトになります。

──他の現場との違いって感じたりしますか?

丸山:違いですか……演劇に対する愛の深い人達が多いなって気がします。お互いを信じてるというか、それを疑っていない風に感じました。私はそういう団体にめぐり逢いたいと思っていたんで、そこに自分が入れることがすごく嬉しいです。嬉しいから自分も何かしでかしてやろうと思うし、若者(笑)として前のめりになっていかなきゃなと思います。皆さん暖かいし……しっかり意見も持ってるし、まだまだそんなに話せてはないけどそれは感じてるのでどんどん聞きたいし触れたいし、自分の思いもぶつけていきたいです。

──今回の作品は原発とか東日本大震災がテーマになっているので、2011年3月11日当時の記憶を聞かせていただけますか?

丸山:大学一年生から二年生になる時で当時早稲田のサークルに入ってたんですけど、その公演の稽古中で早稲田のどらま館にいて、めちゃくちゃ揺れました。

そして、その時の主宰が東北出身で津波以降母親と連絡が取れなくなってしまって、本番を一週間後に控えててどうするか?みたいになりまして、日本をとりまく状況もセンセーショナルだけどそれが身近な人に起こってるっていう衝撃が大きかったです。結局、電池を心配して携帯の電源を切っていただけでお母様は無事だったんですけどね。

皆で福島の様子が流れるテレビを見てて、現実感が無くて原発の存在自体今まであまり意識してなくて、自分が東京で使ってる電気はそこから来てるかもしれなかったのに、何も考えてなかったなって思ったのが印象に残ってます。

あの時の地震の揺れも怖かったんですけど、私は西宮に住んでたので阪神淡路大震災も微妙に絡んでて。私と母はたまたまおじいちゃん家にいたので父しかいなかったんですけど、西宮の家に帰った時食器棚からガラスがなくなってたりとか……一緒に遊んでた友達の家がぺしゃんこになってるみたいな……あるものがなくなるっていう断片的な記憶があって。

地震が起きた時、正直また来たか、という印象もありました。

──その時のお芝居は演ったんですか?

丸山:演ったんですよ。

何度も話しあったんですけど、主宰が演るって決めたものをどうしても演りたい、と……演るって決めて本番が始まる真ん中辺りでお母様の無事がわかったんで本当に良かったんですけどね。もちろん、社会的に演っていいのか本当に悩んだんですけど私達は演るっていう選択をしました。

──ちなみにその主宰の方は今も演劇を?

丸山:これがですね。すっぱり辞めました(笑)。いや、すっぱりではないですね。ちょくちょく演劇に関わってるんでやっぱり好きなんでしょうね。

この先はわかんないです。彼なんで(笑)

──今回の作品についての印象を聞かせていただけますか?

丸山:史実に基づいているって聞いていたので、こんなことがあったんだとか、この人達はこの時こうせざるを得なかったのかとか、各々の矜持なのかプライドなのか美学なのかわからないですけど、それが今の悲劇に繋がってる。台本を読んだ時そのことがクリアに分かった気がして正直、恐ろしいなと思いました。

今回の作品に出てくるシーンなんですけど、圧倒的悪ではないことがこんなに悪を生んでしまう危険性や脆さ。自分たちがその時は正しいと思ってやってることが、違う見方をするとこんなに変わってしまうっていうのがすごい抉られます。

私が演じる役は、相思相愛なんですけど地元も離れたくない。その当時の女性って、今の東京に住む私とは結構かけ離れたところがあって、理解できるところもあるけど圧倒的に理解できない部分というか自分にはない部分もあるんです。彼に対してすごく愛情はあるのに保守的になってしまう。私なら愛情を取るんですけど、お母さんとかおばあちゃんとか見てたら地元への思いみたいなものもなんとなく分かる。決して違う世界のことではないなっていう思いもあります。

話はちょっと違うんですけど……例えば私に就職して欲しいと両親が思ってるのを感じて……やっぱり家族が好きだからそちらを選ぶ、みたいな。だから舞台を観てもらった時、男の人でも女の人でも私の役の気持ちに賛同してくれる人はいっぱいいると思います。でも、私的には内田君の役の気持ちの方に近い気がします(笑)。

女の人の社会的地位とか役割とか自分の意志を持ち始めるっていうのは、この1961年当時からもあったのかなと思って。

私、女であることはいいんですけど……男だったら良いのにみたいに思うこともあって、それって大体社会的なことじゃないですか? それが1961年では今よりもっとあるんだなと思うと、強さのこめ方とかベクトルが今とは違うんだなって感じます。

すごい可愛いですね、私の役。すごく愛のある人で。

──今の女性の置かれてる立場ってどう感じてますか?

丸山:働けともいうし結婚しろとか子供産めとか……もちろん両立出来るんでしょうけど。結構要求が高いなと、なんとなくそれをこなしてる女性が素晴らしいみたいな風潮もある気もするし、色々とやれることが増えてしまったからこそ自分で選択することの難しさも感じちゃいますね。

──観客の皆さんに向けてメッセージをお願いします。

丸山:世の中、考えることはいっぱいあるけども今の日本だからこそ考えてみるべきコンテンツの一つだと思ってます。これからの為っていうのが一番あって、これからの為にちょっと昔を振り返ってみる機会になればいいなと思ってるし、青春の物語だし、肩肘張らず観に来て欲しい。何かを考えるきっかけになればいいなと思います。自分自身とても考えるきっかけになったのでそれを共有したいし、話したいです。なるだけ多くの人に観に来てほしいので、よろしくお願いします。

内田倭史インタビュー

 

──早速ですが、自己紹介をお願いします。

内田:内田倭史(うちだまさふみ)です。22歳で出身は九州の大分県で、大学一年生の時に上京してきて今は東京に住んでいます。大学で演劇を始めて今は五年目です。ちょっと4年生ではないんですけど(笑)。

──大学に入ってから演劇を始めたんですね?

内田:そうですね。大分県だと小劇場と呼ばれるものは恐らくあまり無くって、知ってる舞台と呼ばれるものは吉本新喜劇かわらび座さんの巡業舞台しか観たことがないんですね。だから、東京に出てきた時に初めて小劇場っていうものを観て、衝撃を受けて演劇を始めようかってなりました。

──ちなみに最初に観た作品って覚えていますか?

内田:厳密に言うと自分の大学で出来た友達が演劇サークルに入って、付き合いでそのサークルに入ったらすぐにコント公演があってそれに出たんですけど。そこから外の世界へ観劇に行こうと思うようになって、演劇っていうと下北沢しか知らなかったので、カムカムミニキーナなんかが多かったですね。笑いがあるお芝居の方が馴染みがある感じですかね。

──今回ダルカラに参加することになった経緯とか、稽古に参加してみての印象をお伺いしたいんですけど。

内田:僕も宮地もそうなんですけど2年前の『演劇』公演を観て、その時ダルカラはまったく知らなくて、チラシに『演劇』とだけ書いてあって、なんだろうって観に行ったんですね。そしたら、めちゃくちゃ面白いなっていう記憶だけあって、その後谷さん演出の舞台を何本か観てて、そしたらTwitterに募集がかかってたんです。

「年齢×何百円」のオーディション参加費みたいな取り組みが面白いなと思って応募したんですね。一番の動機は、ああいう作品を作る谷さんってどんな人だろう? 会ってみたいなと思ってオーディションを受けました。

で、いついつの期間までにメール連絡がありますって発表があって、でもまったく連絡が無くて「あぁ、ダメだったんだなぁ」くらいに思っていたんです。そこから更に二週間くらいしていきなり知らないアドレスからメールがあって、それが制作の小野塚さんで。谷さんでもないし小野塚さんって誰? みたいな(笑)状態だったんですけど。

一回みんな面談をやったらしいんですけど、谷さんとスケジュールが合わなくて僕は結局面談をしてなくて、オーディションの後で一緒に飲んでるので「内田は一度飲んでるから大丈夫」みたいなことを言われまして。フワフワというか、なんとなぁ~くな感じで稽古に入ったので「今日からよろしくお願いします!」みたいな区切りがないんですよね。

今の稽古場に若手もいるんですけど、どこかでちゃんと一人の俳優として扱ってくれてるなと、若手だからというような変な特別視はないです。もちろん、僕ら若手はできないことだらけなので、教えて下さるというのはあるんですけど。劇団員さんとか客演さんに対する態度と、僕ら若手に対する態度についても、ちゃんと独立した一人の俳優として扱っていただいてます。その分、僕らも僕らでちゃんと仕事をしなきゃいけないなというプレッシャーがじわじわと来ています。

──内田さんはご自身でも、劇団を主催してらっしゃるようですが、実際にダルカラの稽古を見て何か感じることがありますか?

内田:僕はダルカラの中村梨那さんも在籍していた「早稲田大学演劇倶楽部」に入っていて、そこで劇団を立ち上げたんですね。言っても学生劇団ですし、何回か公演は打ってるんですけど、圧倒的に積み重ねてきている技術であったり、お芝居に対する熱量に差があって。

もちろん、劇団公演をやってるときは「お芝居に対する熱量は負けてないぞ」って思ってやってるんですけど、いざ現場に来て先輩方が準備している様子とか見ると、あぁ全然僕らは足りてなかったなってすごく思います。ものすごく勉強不足だったなってすごく思います。それをやらないとなって強く思っています。

──東日本大震災があった2011年3月11日は何をしていたのか覚えていますか?

内田:すごく覚えていて、高校受験の合格発表の日で「受かった、受かった」って友達と一緒に喜んで、夜一緒に食事しようねと約束したんです。

家に帰ってみるとずっとニュースが流れてて、初めのうちは九州なんで危機感は当然なくて、そのうち何だか大きな地震だったらしいぞっていう話になり、そこからずっと同じニュースが一日流れてて、津波の映像が入ってきて惨状は見えてるんですけど、正直言うと、フィクションみたいなんです。

同い年の友達と話していると、震災の記憶というのは合格発表の日にあったTVの中の出来事っていう感覚だったんですね。誰かがニュースの中で当時を振り返って話しているのを覚えている感じです。だから、最初にニュースを見たときにすごいインパクトを覚えたかというとそうではないですね。

その後大学一年生の時に南三陸にボランティアに行っていて、それは海に漁師さんたちが帰ってきたときに仕事ができるようにするために、森林伐採に行ったんですね。森や川がちゃんとしていないと海で漁が出来ないということで。そのときもボランティアで行くとすごい人数がいて、みんなで作業してご飯たべてって感じで現場は見てるんですけど、悲惨さに対する実感があまりない。だから、あんまり災害に心動くということは無かったんです。ただ当時、地方のローカル線沿線を野宿しながら歩いたり、無人駅で野宿するような旅が好きだったので、仙石線っていう仙台と石巻を結ぶ路線があるんですけど、その沿線を歩こうと思って石巻から出発して、まぁ二日かかるだろうなと思って出発したんです。一人で歩いていて、そろそろ夜になったからグーグルマップを見ながら民宿を探そうとして、海岸沿いを歩いていたんですね。でも、ぜんぜん着かなくてグーグルマップでは到着しているはずなんだけど、周りに何にもないんです。トラックとかは通るんですけど、あるはずの街がその場に無いんですね。

その時、あぁ流されてしまったんだって、初めて実感を得ました。ニュースや学校で聞いた震災の姿とは全然違っていて、恐ろしいし寂しいし全部流されて何にも無くなっているんだなってその時初体感しました。その時は津波で流されてしまった光景を感じて、この前さらに飯舘村に行って、今度は放射能の驚異がまだ身近にあるっていう新たなショックを感じて。

被災された方々はまた違う受け取り方をしていて、この場所の放射能をどうするかが問題だし、津波の方はここに住むかどうか、高い防波堤を立てても更に高い津波が来るかも知れない。同じ被災者でも其々に捉え方が違う方達が住んでいるわけで。もっと知ろうとしなければいけないし、知れば知るほど色んな角度から考えなければならないし。

今、東京で普通に生活してると、時間も経っていてアンテナをなかなか張れなくなってきているなと思うんです。ただ、東京という小さな社会にも被災された方々も住んでいて、今回も同じ座組で同じようにお芝居をして共演するとなって、常に色んな角度からの見方を持っていないといけないなとは思います。

──田植えの時にも、色々なところへ行って見たんですよね?

内田:初めてガイガーカウンターをもって、表示がどこまで来たら危ないとか。それってTVで見ているドキュメンタリーの世界で、ドキュメンタリーとは言ってもTVの向こう側で起こっているフィクションのような感じだったものが、目の前にある。その体験というのは結構衝撃でした。

現実の世界では行政とのやり取りがあって、色んなものに板挟みにあいながらも自分の土地をどうするとか、それを御年配の方々が自分の代で何とかしないとと奮闘されていて、孫達に問題を先送りしてはいけないという思いもあるようでした。ボランティアに行った時も若い人が少なかったなとは感じましたね。

僕が一番思うのは、今活動している大人たちがいなくなった後もあれは残って行くもので、思いや考え方を引き継いで欲しいなと伝えて欲しいなと思いますね。ただ難しいと思うのは、あれから何年か経って改善されている現地の環境とかもあるだろうけど、そこにいる方々の個人的な感情としてあの場所に戻って赤ちゃんを育てられるかと訪ねられた時、「はい」って即答できない何かがあるなぁと思うのも事実ですね。

日頃、キャッチする機会や考えるきっかけが少ないと思うんですね。大学の授業でサラっと扱われても受け取れないし。そんな意味でも、今回の舞台は若い人たちも出ているので観に来てもらって、舞台作品として面白かったら、これきっかけで考える機会にもして、動いていくきっかけにもして欲しいですね。

──最初台本をもらった時と今稽古してみて印象は違いますか?

内田:最初は「おぉ、主役か!」(笑)と思いました。

谷さんに「このキャラクター、東京から福島にあることを宣言しに帰郷する、ざっくり言えば主人公」と言われて言葉を失いましたね。状況はもちろん主人公とは違うんですけど、九州から出てきて家族との関係とか地元の友人との関係とか重なる部分もあるなと思いました。

やっぱり、すごい試練を頂いたなぁと思うんですけど、3年くらいやってきた学生演劇の中でなんとなく出来ていた嘘が全部バレて、「それは違う」とハッキリ言われて。そこに徹底した思いとか準備とか、演劇の現場で感じることがすごく大切だということとか、それを持てないと成立しないシーンが沢山あります。

──方言はどうですか?

内田:方言がむずがしぃんだぁ(笑)。

僕は器用な方じゃないので、お芝居するっていうだけで一杯になるところに、福島の方言ですからね。九州は大分なんで大分の方言なら話せるんですけど、東北なんで真逆なんですよね。否定の「ん」とか分かるところもあるんですけど、発語の仕方が基本的に違うんです。南は大きく口を開けますけど、東北はなるべく小さく開けたり。おどどいの稽古のあとで、できたって思ったことがあるんですよ(笑)。ずっと鴻上尚史さんの発音の本を読んでいたんですよ。そこに頭蓋骨の中でハミングの位置を変えていくって書いてあって、それを真似ていたら「あ!訛れる」って掴んだと思った7分くらいは出来たんですけど、朝になったらすっかり飛んでいて(笑)。

夜勤でバイトしてるんですけど、お客さんと訛りで話せると「東北の方ですか?」と言われてすごく嬉しいんです。このタカシというキャラクターは、標準語と方言を使い分けるんですね。方言がぱっと出ちゃうシーンとかあって、その面白さは台本にはあるので、できるようになりたいなと思っています。気持ちは良くわかるんですよ。地元の友達とか親とかと話してると急に大分弁がでるので。

──メンター制度はどなたとですか?

内田:東谷さんです。もうちょっと東谷さんに教えて貰いたいことが沢山あるんですけど。最初は本読みだけだったのが、急に立ち稽古になって、いわき公演まで日にちがドンドン迫ってくる感じで。だから言われたことだけやっていては間に合わないなと思ってます。言ってくださることって、僕らが事前に勉強して準備して持ってて、指摘されて初めて意味のある指導になると思うので。僕が今持って来ていることじゃ対応できない。戦えない。色んな本に書いてあるから知ってるっていうだけで、学生演劇じゃ太刀打ちできない。今稽古していて初めてそれらを実感してるなって思ってます。「あぁ、こういうことか!」っていうのを実感しています。でも、実感しているだけで、自分のものになってない。まだまだ手持ちの武器も足りないです。

──最後にみなさんへのメッセージをどうぞ。

内田:個人的なコメントすると、若手がおっちゃん達に食らいついてるぞっていう様を観て欲しいです。そこで一つは負けねぇものを手に入れるぞって思っています。今はまだ稽古でバンバン負けてますけど、本番までにはこれは負けねぇってもんを手にします。若いっていうのはどこかで恥ずかしいこと、甘えることになるって思ってたんですけど、そこは若いってことを武器にしなくちゃいけないと思うようになって来たんですね。今持ってる武器は全部使わなきゃいけないな、若さも含めて自覚して武器は全部使えるようにならないといけないなと思っています。そんな感じで戦ってますので、それを観てくれって思ってます。僕は、ちゃんとした地方にも行って何週間も公演するような舞台に初めて立つんですね。デビューだと思ってるんです。

ダルカラの若手のオーディションで受かって、そいつらが芝居して、お客さんが覚えていてくれて、5年後10年後僕らがやれてるかっていうのを観て欲しいです。やれてなかったら仕方ないですけど、やれてたらその時は「あの時の子ね」って言って欲しいです。

公演のことについてコメントすると、しっかり「あぁ演劇おもしれぇな」って思えると思うんです。なんかよく見えない太い柱みたいな思いが舞台の真ん中にあるので、その周りで僕らが存分に暴れまくってるので、是非見届けてください。もちろん、その中で派生して色んなことを考えていただいて、感じたことをお話して欲しいです。作品観て原発のこととか都会と田舎のこととか色んなことを、どう感じて、何に共鳴して、何に反発したか。そんなことをお話したいです。

東谷英人インタビュー

──早速ですが、自己紹介をお願いします。

東谷:ダルカラの東谷英人(あずまやえいと)です。出身は宮城県仙台市。ただ、生まれたのは福島県の飯坂温泉というところの病院だそうです。母方のじいちゃん家がそっちにありまして、中学生くらいまでは結構頻繁に福島に帰ってました。

──谷さんも飯坂温泉を訪れてましたね。

東谷:行ってたみたいですね。だいぶ宮城の県境に近いので、福島市とかいわきの人は行かないような本当に宮城県よりの場所なんですよ。温泉街なんで水道代がタダ、みたいな町です。

──ダルカラが再開することについてどのような思いがありますか。

東谷:他の人はわからないですけど僕はそんなに休止したくないというか、解散じゃない、ちょっと間があくんで休止って宣言しちゃおうってことだったので気持ち的には休止という感じではなくて。その間、他の現場で芝居をやっていて同業者の方やお客さんに、「いつ再開するんですか」と1日1回聞かれるくらいの感じだったんですよ。

活動休止公演の『演劇』を結構たくさんの方が観てくれたっていうのもあると思うんですけど、有難いなぁと思ってました。休止自体はもっと長いのかなと思ってたんですけど、わりときっちり2年間で再開なので、あっという間という印象ですね。ずっと芝居に出てたからかもしれないですけど。この機会にあちこち行ってやろうと思っていて、もう再開かっていう感じです(笑)。

──他の劇団員とは休止期間に会ったりしてたんですか?

東谷:いやぁ、それが、ダルカラはドライな関係というか、芝居の現場じゃないのに飲みに行ったりしないんですよね。僕以外のみんなはしてるんですかね、とりあえず僕は誘われないし行ったこともないし(笑)。

客演先で、百花、塚越、大原とはたまたま一緒の現場になるってことは何回かありましたけど、それ以外で会うのは全くなくて。それで、去年ダルカラが合同会社になったんですけど、その時に全体で集まってミーティングをしたのが久々の再会でしたね。正直今も慣れてないというか、2年会ってないと人見知りが(笑)また再開しちゃうというか、なじめてないですね。稽古もまだ序盤なんで。

──今回の作品は東日本大震災が背景にありますが、2011年3月11日の記憶はありますか?

東谷:覚えてます。

あの時は高円寺に住んでいてお好み焼き屋でアルバイトをしてたんです。それで、勤務時間が朝の10時から15時だったんですけど、たまたまその日お客さんが全然いないので14時ちょっと過ぎにあがっていいよと言われて。帰ろうとして、お好み焼き屋の下駄箱から靴を取ろうとした時に、ガタガタガタって地震がきて下駄箱が倒れてきた、というのを覚えてますね。

あの日帰宅難民が結構出たじゃないですか。新宿で動けなくなったっていう知り合いがいっぱいて、高円寺まで歩いて来れるので「うち泊まりなよ」と声をかけたのであの日の夜はすごい来客数でした。10人以上いましたね、狭い部屋に。何もすることないし酒飲むかってなって、よくわからない夜でした。

僕自身は大丈夫だったんですけど、実家は大変だということでしばらく電話もつながらなくて。うちは仙台市の宮城野区なんですけど、8kmくらい自転車で走ったらもう海なんですよ。海側って感じではないんですけどそんなに遠くもなくて、僕が高校時代に野球をやってたグラウンドが海のそばにあって、そういうよく行ってた場所が津波で壊滅してまして。地震のあと、5月か6月に仙台に帰って様子を見て回ったんですけど、僕が練習してた野球グラウンドはもう、グラウンドではなかったですね。変な隆起があったり、田んぼに囲まれているような場所に船が真上から突き刺さっていたり、家が半分なかったり、新聞とかテレビで見るだけではわからないエグさがあって。当然信号もないので人が誘導してるんですよね。そういうところを車で回ってました。これは目に焼き付けておかねば、って思いまして。

その時はダルカラ入団直前だったんですけど、どうしようかなぁと思ったりして。宮城県出身の知り合いの女優さんの中には、一旦芝居を辞めて実家を手伝うという人もいました。

とにかく実家のことが気になりましたね。福島もおじさん家とかあったんですけど、実家にはおばあちゃんもいるので大丈夫かなとすごく心配でした。あの時から実家によく連絡とるようになりました。ツイッターもあの時くらいからすごく使いだしたような記憶がありますね。本当かどうかわからないような情報もいっぱいあった、いまだにあると思うんですけど、とにかく知りたいって思って見てましたね。

──東谷さんは今回どのような役をやるんですか?

東谷:これ以上ないってくらいのキーマンですね。

こんなにおいしい役をやったことないんじゃないかなっていうような(笑)。第一部においてということですけどね、第二部とかはまだ分からないので。これは谷とも話したんですけど、今まで出たお芝居でメインの役どころではないようなポジションにいて物語をかき回すとか何か火をつけるとかそういう役回りって結構やってる方だと思うんです。

でもそんなの目じゃないってくらい今回はキーマンだしおいしい役だから、とてもプレッシャーが高いんですよ。とてもでかいものを背負っているというか。これから稽古をしてどういう感じに着地するかわからないですけど、初めて台本を読んだ時に「こんな役やったことないな」と大げさじゃなく思いました。「こういう役を任せるんだな、俺に」と感じまして。自分が請け負ったことがないような役割を持っている人物というか。

多分、僕だけじゃなくて過去から繋がりのあるメンバーに対しては、ちゃんと新しい挑戦をさせていて、そこを乗り越えて初めて前に進んでいけるような、挑戦状をもらっているような感じですね。だからダルカラっていいなって思います。安全パイとか楽してできるようなことは一切ない。今までもずっとそうだったんですけど、やっぱりそういう意味でのプレッシャーはありますね。やりがいというか。

二年前のインタビューで何を話したかというのは具体的には思い出せないんですけど。二年経ってですね、僕はより芝居の難しさだったり深さだったりを感じていて。でもやっぱり、劇団員それぞれが二年間の経験値としては積んできているとは思うんですけど、そんなことで易々クリヤーできるような簡単なものはダルカラでは通用しない。もっと高いハードルなんだなと思ってます。

──今回、テーマが原発ということでちょっとハードルが高いのかなと思ったりもするのですが。

東谷:そうですね、高いですね。

色んな角度からのご意見を観客の皆様もお持ちでしょうからね。原発や震災のことだったりとか、あれ以降、劇作家の方が震災を扱った、あるいは震災から着想を得た戯曲を書くことも増えて、そういった作品に出演したこともありますが。今回ほど福島とか原発とかを真っ正面から扱ったものには出会わなかったですね。それまでやってきたそういう芝居が優しかったわけではないのですが、今回のは「芯をくわないと負ける」という感じが強いです。

──舞台は1961年だとお聞きしているのですが。

東谷:僕はまだ生まれていないんですね。両親もおそらくまだ出会ってすらいませんね(笑)。実際に体験していない世界を体験する。それこそ、やっぱり演劇の醍醐味のひとつですね。

──3.11を知ってしまっていて、その上で舞台上で悲惨さを知らない時間を過ごすわけですけど。

東谷:去年、ティーファクトリーというところのお芝居では、実際に防護服を着た作業員がそれを脱ぐ前に消毒しあうシーンがあったりして。ぼく自身はアンドロイドの役で、人間とロボットが共存している世界の、あくまで架空の未来の話というフィクションでした。今回は、フィクションなんですけど、限りなくノンフィクションに近いというか、なのでそれをやるギリギリのスリルはありますね。怖いことだなって思うし。

──それが観てる人にとって真実になっちゃう怖さというか。

東谷:ただ、実在の人物が殆どモデルになっているらしいので、安易にフィクションだって考えられない所もありますし。

──最後にみなさんへのメッセージをどうぞ。

東谷:まずは今回、初めて出てくれている若者のキラキラさ(笑)。素敵だなって本当に思うんですよ。そういう風に思うってことは、僕も歳を重ねたってことだと思うんですけど。そんな風に無邪気にキラキラできないんだなって思うと同時に、目の前で若い俳優が躍動しているのを観ているとすごく気持ち良いんですよね。だから上演をご覧になる方々は、それをその場で体験することになると思うんです。

あとは、立場的に僕が若手ではない(笑)もう30も超えてますし。もっと上の40代のメンバーもいて、そういう青春真っ盛りみたいなことはもうできないだろうけど、それを経て生き続けてるから今こうなってるんだよって、身体というかそういう姿を舞台上でさらけ出すことになると思うんですけど、かといって若い人たちとベテランたちがバチバチ戦うお話ではないんですが、そういう違いのある役者たちが舞台空間で混ざり合って、どういう熱が生まれるのか。

原子力の発生じゃないですけど、そういう熱量みたいなものが舞台の一番の魅力じゃないかなと思っていて、それを見せられるお芝居にしたいですね。ちっちゃい子でも年取った人でも、その人なりの情熱みたいなものをぶつけながら生きていく。そんな人間具合みたいなものをお見せできる舞台にしたいなぁと思います。

大原研二インタビュー

──早速ですが、自己紹介をお願いします。

大原:ダルカラの大原研二(おおはらけんじ)です。30……いきなり嘘ついたなあ(笑)43歳に最近なりました。2年の劇団のブランクですけど、活動再開ということで2年の間を空けている間に43歳になりました。

今後も精進していく気満々で気持ちは新人のつもりでやっていきたいと思います(笑)。どうぞ、宜しくお願いいたします。

──ダルカラ、再開してみての感想はいかがですか?

大原:あっという間だったなという感じです。

福島三部作の構想みたいのは活動休止時点で谷の口からは聞いていた記憶があるので、谷もずっと取材をしてて今回上演するという形になるまでに2年かかったという感覚の方が近い感じがします。この作品をダルカラ再開公演としてやるかどうかその時点では決まってなかったですけど。

でも勝手に何か2年くらいかなっていう、何となくの感覚もあったし、そういう意味ではあっという間で……むしろ何かもうちょっといろいろやってからでも良かったぐらいの感覚ではあります。

──今回の稽古に入る前に、ダルカラの皆さんで集まったりしていたのですか?

大原:休止中は本当に……そんなにないですよ。そういう機会は。1、2回あったかな? というぐらいですね。だから稽古場にというのはもちろん2年ぶり。でもだからといって、ものすごく新鮮な感じがするということもないですね。

むしろ「あーっ!」こんな感じだよねという。うん。居心地はいいです。ほんと古巣に戻るという。古巣っていうほど間が空いている感じではないですけど。しばらくぶりですがそういう意味ではホーム感は僕だけでなく劇団員はあるんじゃないですかね。

──今回の作品は東日本大震災が背景にありますが、2011年3月11日は何をしていましたか?

大原:ダルカラやる前で、とある現場の演出助手というか。基本的に演出が現場にいられないからほぼ丸投げで助手と言いながら、がっつり現場に居続けて演出の意図を受けて演出をつけるみたいな仕事でお台場のスタジオにいたんですよ。そこが最新型の耐震構造の建物で揺らして揺れを逃がすタイプでものすごーく揺れたんですよ。周りの建物もそういう造りになっているものが多くて窓の外に見える建物も、ものすごい揺れ方をしているから恐怖は半端なかったですね。

まあ知識としてはありましたけど「ありえないでしょ」というぐらい揺れていたんで、その時はその場がそれだけ揺れているから東北がとか分からなかったんですよ。先ずはやばい! 地獄だ! と思って外に避難して、ゆりかもめ(お台場の交通機関)は尋常じゃない揺れ方しているしお台場近辺、火事になったんですよ。最初は、他の心配するより、やばい! これはやばい! って言うのでいっぱいでしたね。

これが震源が東北で、ものすごいことになっててというのは後から入ってきた情報でした。結局僕たち、お台場から出られなくてフジテレビのクロークに泊まることになって一夜そこにいて、流れてくるニュースと報道関係者が局を右往左往している中にいたんです。

で、ずっと実家と連絡が取れるまでちょくちょく電話かけにいき安否確認をしてましたね。東京の自宅には次の日にお台場から車が出られるようになって帰りました。実家は早い段階で福島を出ていて、秋田の方まで一時ちょっと避難して連絡は取れたんで一安心だったんですけどね。

後はどうすることも出来ない中でどうなるか分からないですけど、舞台を一緒に作っている人たちといたんで芝居の話をしていました。その作品、さぁどうしましょう?とか、こうだと思うんですよ! とかっていう話。結局、会場自体が使えなくなって出来なくなってしまったんですけど、ただある時点から開き直って芝居の話・舞台の話をキャストの人としてましたね。入ってくる情報もお台場出るのが大変なぐらいだったので、でも実家が心配だとしても実家には行けないという話は入ってきてたんで。僕、南相馬出身なんで、まさになんですけど。

あの日はそんな1日でしたね。

──その後、実家に帰られたのは?

大原:実家自体はちょっと後ですね。母親が避難をしていて、実家には誰もいないという状態になっていたので。母親が東京の僕のところに避難してくるという算段をたてて、ただ実家に猫を置いてきちゃって連れて東京に行きたいというから、何とかガソリンとかを入手して途中で猫を回収しながら東京に出てきて、1か月ぐらいですかね、しばらく避難していて。

原発から20キロ圏内まで入れないとなって、僕の実家がだいたい22キロぐらいなんですよ。だから、行けるということが確認出来てから、やっぱり母親も戻りたいって言って戻ったんですよ。それまでは戻れなかったし、母親もこっち来ていたんで戻る理由も、ちょっとなかったんで結構経っていましたね。結局、実家には1か月ぐらい経ってから帰りましたね。

──戻った時に現地を見てみて、何か思ったことはありますか?

大原:思ったことは、まあちょっとうーん、言葉にするのは難しいですよね。ただただ驚愕、ウソだろという光景ばっかりだったんで、何もかもがですね。そしてその僕の実家が22キロぐらいなので、いろいろ重機が入って作業するというにも安全が確保出来ているのかどうか、なかなかGOが出せないエリアなんです。もう本当手付かずで津波の影響も地震の影響も手付かずみたいな状態だったんで、その時は何もかもが驚愕するしかない光景が広がっている感じでしたね。

今思うと、そうですね。今戻って見ている風景とかもその時はちょっと想像も出来なかったですね。

──原発とか震災を扱っている作品に出演することについて、ご自身のなかの思いを伺えますか?

大原:劇団員なんで、構想の話を聞いていたりしていたんで、そのなかでも扱っているものが福島であり相双地区っていう、僕の住んでいた南相馬含めた相双地区の原発に近いエリアの話ということは分かっていたし、当然原発というのを扱うということは聞いていましたけど。

そもそも芝居の構想として原発がどうだこうだという話というより、1961年当時の日本であったり社会であったり、資本主義社会の構造とかであったり、現代の状況に結果としてなってしまった。そういうことになる土台というか、つまり原発が誘致されて出来上がってどういう流れのなかに生きていた人達が、何を考えてどういう風に生きようとしてこの歴史に繋がっていたのか? そんな舞台をやるんだろうと最初に話を聞いて思っていたので、正直原発のことをやるというよりは、うーん、そういう意味では普段と変わらない人間が生きていく姿を観ていただくというか。

みんな人はそれぞれ幸せになりたいと思っていて、そのたくさんの人たちの思いとかそういうのが原発誘致の背景にあるわけで。そのなかで、どういう風な心境や心情や環境にあったのだろうということや、当時生きている人間の姿を観てもらうというか、それこそ演劇ならではのチカラの魅せどころだと思うし。今それを観てもらうことによって、3.11を知っている私たちに届くもの、一緒に考え感じてもらうことが要になる作品だろうなというふうに思いが巡っています。

何か自分が福島南相馬出身だからというよりは、一緒にやるキャスト・スタッフ、関わってくれる人々、観にきてくれる人たちと共有するうえで、ものすごく価値のあるというかダイレクトに僕たちも観てもらう人たちの心情的な部分を、おそらく動かせるであろうことがたくさんあるはずで、そこに貢献したいという気持ちですね。

何ですかね、何か東北とかそういうことは考えてないし、何か訴えたいというよりは今この話を扱うというのはものすごく僕たちが生きていく世の中にダイレクトに結びついているというのが、とっても刺激されるんですね。そこに魅力を感じて、ダルカラでやるんですけど。いち演者としてやりたいと思っていた作品だし、それがやれてすごいやりがいを感じる反面、観ている人の心情を刺激できなかったら、これ全く意味のない作品になってしまうものだというプレッシャーも感じています。

──今回の大原さんの役について、先日の取材報告会の時に台本をみて困惑したと言っていましたけど、ご自分の役のことですか?それとも台本全体的に?

大原:台本全体も、けっこうありますね。どちらかと言うと、ここって切り取るよりは「あーっこう来たか」ということと、あとは個人的に本を読んだ上では不可能じゃないかと(笑)。普通、やり方が何となくイメージがあるであろうものを作家であり演出家であるとちょっと考えてしまうもので、谷氏にもたぶんあると思うんですけど。

こんなに本を見て一切考慮してねえなということとかが、平気で書かれていたり、驚愕するポイントがちょいちょいありまして。

──舞台上でこれはどうなるんだろうな、みたいなことですか?

大原:そうですね。実際、現実世界のなかで考えてどうやるのであろうとかちょっと予測がつかない。大概やってきたんで、だいたい方法論的にこういう風にやったりすればみたいな方法論的なことが初見で読んで分かるようになってきているんですけど。分かんなかったですね。

例えば、展開的に普通に喋る順番を、この人が喋ってっていうセリフの流れがあるなかで、こいつ喋って、次にこいつ喋るみたいなのがありえねえだろうってことが(笑)起きていたりとか。あとこのシーンと、このシーンはどう繋がるんだろうとか。

パッと思いつかないであろうということが、平気で書かれていたりすることもあり、あーあー、なるほどなるほどという、それもちょっとダルカラやっているなという感じがしちゃうな。そう感じちゃうところも何か、何っすかね、変にドMみたいになっていて(笑)、おっかないんですけど。

まあ、これから立ち上げていきながら、そこも楽しみながら、いまやっているんで。

──いままで3人インタビューして、皆さん「自分の役はやりがいがある、今までやったことのない役です」っておっしゃってたんですけど。大原さんはどうですか?

大原:やったことないというか、どうかなあ。ダルカラではかなり色々やらされているんで、あんまりやったことないと思うことはないかな。どちらかというと、僕の印象だと谷的に「やったことがないだろう」っていうより「こんなことを書いてみたんで、やって」みたいな感じで渡されている感があるなぁ(笑)。

常にどちらかというと、こんなのやったことないからおもしろいと思うんだよねーというノリが、ダルカラやり始めた序盤ではあった気がするんですけど。最近になってくると「どうやったらいいか分からないけど、やって」という無茶ぶり感(笑)、個人的にはそういう感が強くなってきている気がするんで、そういう感覚ですかねー。

やったことないというよりは僕自身が、「さあて、どうやろう、どうやったらいいんだろう」というところから入る感じが……。

──もちろん誰もやったことのない役ではあるんですよね?

大原:まあ、でしょうね。というか分からないですけど、やったことあるかないかは想像つかないですけど。まあ普通に考えたら、やらせることはないという感じ(笑)。うまく説明できないですねー。

──今ので十分期待が膨らみます。

大原:分かんないですもん、だって、こんなに目算が経ってないのも珍しいぐらいです(笑)。

──稽古はあとどれくらいですか?

大原:三週間あるかないかですね。でもいつもだいたい何だかんだ稽古やっている最中に、突然の方向転換とかにより対応していくみたいな、ダルカラではよくあることなんで、そんなに不安ではないです。

──今回メンター制度みたいなものがありますけど、大原さんはどなたか担当されているのですか?

大原:僕、宮地担当です。僕が、今回地元でネイティブということもあって方言的な、もちろん方言指導の方がいらっしゃるんですけど。実際、こうやりながら地元だどこういうふうに言うみたいな感じとか含めて、ある程度みんなの稽古のアシストみたいな感じですね。

ほぼ全員訛りを話すんで、宮地のメンターというより、いろいろな人の、もはや誰のという感覚がないですね。初日からメンター制度と言われたけど、全員とほぼほぼ長い時間、顔をつき合わせて方言の話とかしているんで。

──若者たちが皆さん、なかなか面白そうな人たち、素直な感じですね。

大原:そうっすねー、何かハートがある感じが、結局それが一番ですからね。

──オーディションの時って大原さんは見られたのですか?

大原:僕は行けなくて、どんな人がいて誰を取ったのか? 本当にプレ稽古まで分からなかったです。キャストが発表されて名前だけは先に知ってたいたのかな? 実際に逢ったときがプレ稽古のときなんで、ほんとに分からなかったです。

──結構な人数のなかから勝ち残ってきた人たちなんですよね?

大原:そうです。それに関しては誇っていいんですよね。

──最後に観客の皆さんへのメッセージをお願いします。

大原:まあ、またおもしろいものが出来そうです、いろんな意味で。

ダルカラらしいところも含まれつつ、ほんとに演劇のいろいろな要素がギュッと入ってて。しかも色んなおもちゃ箱のおもちゃを集めてきてってわーっていうよりは、このお話が三部作の第一部としてもそうだし、ひとつの単体としての作品としてもそうですし、とても演劇的にさっき言った「ここで生きてきた人々の話」が、しかもこれが50年にわたって進んでいく話のスタートになるんでね。とてもおもしろい構成だったり、お話だったり、言葉だったりが散りばめられていて、とても完成が楽しみ、僕自身が楽しみな作品になっています。

いやーだから本当に自分自身もそうですけど完成がものすごく楽しみな分、そこに届かないと悔しくなるでしょうね。早く作りたい。いろいろな諸事情、美術を決めたりとか、道具とか衣装とか細かいまわりの設定とかが、どうなっていくのか? とか決まっていかないと完成というか作りこんでいけないので、まだその過程にいるのでしょうがないですが、明日出来ていたら観たいですね。

明日出来上がっているなら観たい感じです。なんですけど、自分たちがやらないと観れないので、自分たちがやっていると観られないというのもあるんですけど(笑)。正直完成が観たい気持ちが、すごく強い作品です。

なので、いいなあ、皆さんは観れるんですよね、きっと(笑)。僕は観れないです(笑)、完成しても、完成すればするほど、客席には行っちゃいけない人になるので観れないです。

存分に僕が羨ましがりたいと思うんで楽しみにしていてください。