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vol.17『演劇』俳優ロングインタビュー:大原研二

一生続けられる仕事として役者に

演劇を始めたきっかけについて教えてください。
明確なきっかけとかは、ないような気がしてて。大学卒業をして、普通に就職活動の一環で、僕はお芝居をやる人、役者になろうと思ってなったんだけど。でも、その時に、何で、そんな選択をしたのか?と、よく不思議がられるんです。元々大学も行かず、地元の方で歳をいっても続けられるような、手に職系の仕事に就こうみたいな気持ちがあって、でも親に反対されて、大学だけは行けみたいな。そんな感じで大学に行っていたから、そういう発想もあって、でも、何となく僕のなかでお芝居をする人、俳優って、すごい技術職のようなイメージがあって、それこそ手に職、歳がいくつになっても続けられる仕事だしというイメージがあったせいで、自分の長く続けられる一生の仕事として映っていたのかなーという気がするんですよ。
元々ね、小さい頃から人前に出るタイプだったんです。幼稚園のころには運動会で壇上で喋ることをしてた。選手宣誓みたいなことをしてた覚えがあります、そんな事をよくやっていた。
生徒会長などもやっていたんですか?
生徒会長をやっていた時代もある。小学校のときは児童会長、中学のときは生徒会長、高校の時はやっていなかったんですけど。でも、この間、久し振りに同級生に逢ったとき、みんな高校でもやっていたイメージがあるらしく「でも俺やってないんだよなー」「いやー、やっていた、やっていた」とか言われて。確かに、そういう人前に出ることに、全く抵抗がなかったし、むしろ人前で何か喋ったり、パフォーマンス的なことをやることを楽しんでたと思う。そういうのもあって、わりと自然に、何の仕事をしようかなと思ったときに湧いてきたんだと思うんですよね。

人に感動を与えたかった 役者以外に興味があったのは花火師!

技術職がいいと思っていたそうですが、役者以外になりたかった仕事はありますか?
思ったことがあるのは花火師。花火職人は考えたし、調べたし、必要な免許というか資格も調べて、就職活動の一環として、どこかなーとかまで調べていたけど。最終的には受けなかった。
花火師の何に惹かれたのですか?
花火師は花火を作って、夜空に打ち上げて、見ている人が、それに心を動かすわけじゃないですか。単純に言うとそういうことを作りだしている、手で作りだしている、自分の体と経験でみたいな感じが、僕としては役者も近いイメージだったのかなーと思うんですけど。
自分が職業としてやる仕事で、人に感動を与えたかった?
いま思えばそのとき、そんな明確に興味を持った仕事の共通項みたいのを、考えてなかったと思う。
もう一つは、実家が英語塾をやっているのもあったりして、僕自身教職免許を取っているので、教育にもちょっと興味があったんですよ。でも、そういうので言うと、ここでやっと演劇を始めるとか惹かれた理由につながるのかもしれませんが、演劇を通して、作品を観る、経験するということで、ちょっと、その自分のことを考えたり、世の中のことを考えたりするじゃないですか。演劇にはそういう力があるなーと言うのがあって、そういう一面にも教育に興味ある自分が惹かれているのかなーと僕は思いますね、今は(笑)当時、そこまで考えてたかどうかは分かりませんけど。
役者を始めるまでに観て感動した演劇作品はありましたか?
全部、後付けで。それまで、そんなに演劇を見ていたかと言うと、そうではなくて。普通に映画やテレビは観ていたけど。一番最初は、役者になるといっても映像系から入っているし、でも芝居をやり始めて、舞台をやっている知り合いとかも増えていくなかで、観る機会が増えて「おもしろいよ」というのを教えてもらったりして、観ていくなかで「あーおもしろいな」というきっかけがあって、みたいな。だから、あとから。始めるようになってから観だしているから。そういう意味では「あー!感動した!!私もやりたい」みたいな、明確なきっかけはないです、正直。お仕事として、一生続けていけるものは何だろうと探していたら、選択肢に浮かんできただけで。そもそも大学時代、行く気がなかったのもあって、そんなに勉強していたわけじゃないし、仕事何しようと思ったときにやっと調べ始めたり、みたいなことをしているうちに、これはおもしろそうだぞということに。

役者を始めて……

役者を始めてみて、思っていた世界と違ったことはありますか?
思っていたのと違ったのは、意外と仕事がないこと。分かりやすい発想でいくと、花火師だったら、花火を作って、それが腕のある人なら、キレイに散ったりして、そういう花火を作れるから、その人に花火の仕事がまわってくるわけじゃないですか。みたいのと一緒で、同じ発想だから、役者もこういうことが出来たり、役者としての技術が、例えば悲しいシーンで悲しい人物が悲しそうにみえたりとか、そう喋る言葉で、それを聴いたりして、涙したりして、そういうことが、ちゃんと分かりやすく、伝えることが出来るから、こういうお仕事ができるみたいな、すごく明確に結びついている。そういう勝手なイメージがあったんですけど、意外と、そんなことはない。正直、最初に事務所にいた奴らはタイプも全然違うし、そういう意味では演者としての技量みたいのも、マチマチだけど、あいつは、よく仕事が来る取れる、あいつは、俺から見て、いろいろなことが出来るのに、そんなに仕事があるわけではないということが起こるから、あれ?これって仕事って、どうやって取ったらいいの?みたいな、意外と分かんねえ世界なんだなと、やり始めて最初に気がついたのは覚えてますね。
その時の僕の理屈だと、すげえ分かりやすく言うと「それ出来ますよ」ってやつがいたら、いいじゃん使えばって、思うんだけど。何で「出来ないやつを、わざわざ使うんだろう」というのが疑問でならなかった。今なら分かる部分ももちろんあるんですけど。そういうのは、ありましたね。
最初の頃は、あまり仕事もなかったのですか?
そんなに。小さい、エキストラに毛が生えたようなやつとかが多かったし、舞台もそんときは、まだ知らなかったから、そもそも舞台もやってないしとなると、ほんとにレッスンとかを受けさせられてる時間帯のほうが多いみたいな、まあ始めたばかりのときは、そうですね。
初舞台は、仕事が来たから出たという感じですか?
初舞台はねー、やるぞと決めてからの初舞台は、多分あれだな。とある事務所がやっている養成所に知り合いがいて、その知り合いから、その養成所で、お披露目公演みたいのをやるから手伝ってほしいみたいな話をされて、関わっていろいろと喋っているうちに「台本、書いてみたら?」とかいう話になって、台本が書きあがったら、ちょっと演出的な領域とかもやってみようってことになり。養成所の先生もいるけど、自主公演みたいな、自分たちでつくる公演だったから、先生は一歩ひいたところにいて、なぜか俺が外から、ちょっと入っていって、そんなことをやり始まっているうちに、結局自分も出ることになった。ってやつが。その事務所のスタジオみたいな場所で、スタジオ公演みたいのが、多分一番最初の舞台じゃないかなー。
映像と舞台をやられていて、どちらがおもしろいですか?
僕は個人的なおもしろさで言ったら、僕は俄然、舞台のほうが好きだなというのが、正直ありますね。僕が始めた理由に繋がるようなことが、とっても求められることも多いし、それ以外に、みんな簡単にやるようでやってない、役者を職業にすることで必要になる、日々の自分のメンテナンスとかトレーニングをやりつつ、そういうことが生かされる領域みたいのがちゃんとある。
生かす機会を与えられるし、そういうことを求められることが多いのが、経験上舞台のほうが多い。わりとネチネチやるのが好きなタイプでもあるから、多分そういう意味でも、やり方的に自分に向いているんじゃないかなと思っている。
舞台の作り方のほうが、日々の積み重ねなんですかね。
そうですね、結局ライブで、生で毎日同じことをやったりするために、そのために必要な時間はある。戯曲があるのに、毎日稽古もせずにアドリブに近い状態でセリフ入れずに「わーい」と言って、ポーンっていう舞台って存在しないでしょ。それは、それだと毎回見せるうえでの、そのクオリティというか作品をつくることが達成されないまま、毎回毎回ステージを重ねるみたいなことになるから、みんなしないんだと思う。積み重ねていくやり方が向いているんだろうな、きっと。

ネチネチやるのが好き

大原さんは1年くらい前からオープン自主稽古※1をやられていますよね。始めたきっかけは?
きっかけね。僕、自分の持っている、これが出来るようになると、こういう役が出来る、こういう表現ができることとか割と大事にしていて、例えば、花火の火薬の詰め方というか、玉の配置みたいなものとか。これが、こうなってないと、こう飛ばないみたいなことに、割とこだわるというか、それだけじゃないのは分かっているけど、それを大事に思っていたりするんです。でも、それって別に無視しても、多分飛ぶんですよ。花火は飛ぶし、爆発はする。けど飛び方の美しさみたいなのって、それがやっぱり演出が求めたりとか、演出によって違ったりとか、そういう細かいことを、大事にしたいと思っているからこだわりたい。
それは一人でネチネチ稽古することも出来るんだけど、ちょっとある時、そういうことをシェアして、もっとネチネチしたところを楽しめる仲間みたいなのが増えれば増えるほど、今度はそういう、一見分からないけど緻密に作られた、そういう手に職、そうあり続けてきた人だけが上げられる花火を作りやすくなるのではと思って。自分ひとりで作るのではなく、いろんな人がいて、いろんなアドバイスも貰って作りあげるみたいなことが出来たら、やりやすいんじゃないかなーと思って、仲間がほしい。より現場で、そういう人達と逢えるようになりたいみたいな気持ちがあって、自分でネチネチやっていたやつを、みんなに協力してもらって、僕も教えてもらったりとか、これ違うんじゃねえ、これはこうあるべきなんじゃないこととかをやれる場所があったら、ステキだなーと思って、やり始まったというか。
なんかほんとに単純に先輩とか後輩とか含めて、会議室で、仕事ってのはな、俺の経験上こうなんだよとかをやっているのと、たいして変わらないです。ひとつの仕事をやるのに、いろいろな人の知恵を借りて、それがより良い製品を生み出すきっかけになればいいみたいな発想なんで。たまに「何かおかしなことをやってるね」みたいなことを言われるけど。何となく自分では、普通の発想で、むしろ普通すぎて、つまんねえなぐらい。
自分ひとりで自主稽古をやっていたのを、単純に人を増やしただけという感覚ですか?
感覚的にはそう。でも人が増えれば、自分ひとりでは出来なかったことが出来るので、出来なかったことを出来る機会にはしたい。ひとりじゃ出来ないことをしてみたいので、そういう場所にしよう。「オープン自主稽古」ってのをやるときは、「基本的に僕の稽古なんで」と、常に言っていて、みんなにはそれに付き合ってもらう。むしろ僕が知りたいというスタンスなんで。「こういうことをやりたい」って言って、もちろん参加してくれた人が勝手に自分の美味しいとこ取りして構いませんけど、基本的に俺がやりたいようにやりますという自分の稽古。自主稽古と言っているぐらいで、それは変わらないんですけど。やー、贅沢な時間だとは思います。
基本的には俳優が参加するものですか? 演出家・劇作家も参加出来るんですか?
そういう意味では、ほんとオープンなんですけど。誰でもだし、ほんと、参加していただくのは、完全にオープンだし、僕のほうから来てくださいよと言う人も、もちろんいます。でも来てくれたからと言って、今日、その人が講師ですとかやるかもしれないけど、分かんない。正直、僕がその時やりたいことに、茶々いれられて、今日はそれいいんですよってなるかもしれないし、それは分からないですけど。基本的に、そういうことも含めて、時間あって、いろいろな俳優を見たかったら、来ればいいし。
ただ単に、自分のメンテナンスのために、いろんな人と、ちょっとやろうと思ったら来ればいいし、全然、自分の使い方してもらって構わないんです。正直そんなやり方なんで、あっ今日違うなー期待した感じのやつじゃなかったら、あっ違うわって帰っちゃっていいぐらいのノリではあるから。
何か、その時持っている課題みたいのが試してみたい?
そういうのを含めて、それこそフラットな仲間が、仕事仲間が欲しいのかなという気はしますね。先輩、後輩含めて、先輩だけど、後輩だけど、違うキャリアだけど、そういうのをとっぱらって仲間、仕事仲間みたいな感じが、僕は、そういうやり方をしたほうが腑に落ちやすいタイプなんでしょうね、きっと。
劇団のメンバーとは、ちょっと違う感じなんですか?
うーん、意外とね、そういうのをやるときに、毎回劇団員が来るか?と言ったら、そういうわけでもないし、でも全然、それはそれで良くて。ちょっと違うといえば違うかもしれないし、劇団員の場合、仲間というより、さらに踏み込んで、若干家族みたいな。
ダルカラだからですか? それとも、どこの劇団でも、そういうふうになるものですか?
僕は分からないなー、みんな、そうか分からないですけど。僕は、割と、そうなっちゃうところあるかもしれないですね。なんだろう、けっこう生き死にともにするところがあるので、劇団となると、また、そういう意味では、ちょっと自主稽古みたいな形で一緒になった方たちとは違う接し方をしなきゃならないと思っちゃうときもあるし。切っても切れないみたいな感覚は強いかもしれない。すごくする。

ダルカラとの出会い、谷作品の魅力

ダルカラに入ったのは、谷さんに誘われたからだと思いますが、迷ったりはしませんでしたか?
あのう、ちょうど前に属していた劇団※2を辞めることになっていて、その最後の公演に出てから、ダルカラ所属になるみたいな流れになっていて、実は1か月、1か月も空いてないぐらいにダルカラになっていたと思うんですけど。
辞めるのに、また入るというのに「うーん、一回フリーになろうと思ったのに、またすぐ入ると思うのも、どうなのかな」と一瞬考えましたけど。その前に谷さんと作品をやったり、何本か谷さんの作品を、ダルカラじゃなくても観たときに、毎回やるたびに、やりたいこととか作風が違う印象があったので、そういう意味では、前はわりと王道なコメディで、ひとつの路線みたいのがあって、やり方も、結局演出の世界観みたいのを作っていく。下の若い子たちも増えたりして、そういうことを伝えていくのがメインになっていたりしてたのが、「じゃあ、僕は離れるわ」となった原因なんで。毎回、新しいことを作り出すところだったら、そういうことは起きないかなというのもあったんで、そういう安心感みたいのはあったし、あとは俄然、誘われたときに、次のダルカラでやろうと思っている話をされたときに、めちゃめちゃおもしろそうだったから、やりてえなと思った。だからあんまり迷った感じはないですね。ただそれだけですね。タイミング! タイミングってことで(笑)
フリーになることには気持ちの準備が出来ていて、いろいろ準備していたのでしょうか?
準備はね、休団期間を1年間ぐらい取らせてもらって、その間に劇団に属しているときには、あまり出来なかった、気になっていた人の作品に出るという、客演してみるということをやって、その時に谷さんと知り合ったという過程なんですけど。それがむしろ準備期間、それを終えて休団期間を終えて、最後ここまで出て辞めますという話になっていたんで、そういう意味では準備期間をしながらやっていたとこだったから、まあびっくりしましたよね。でも、そういう準備期間というか、外を見るみたいなことをやっていくなかで、一番おもしろいなって思った人が、ダルカラ再開するんだけどという話だったから、まあだったら俺、たぶん誘われたら出るしなーと思ったし。
谷さんの作品の魅力は何だと思いますか?
うーん、やっぱ僕はね谷さんの作品には人間をちゃんと見て、人間のしかも何かその甘くないというか難しい側面みたいなこととかを、ちゃんと見ながら、その上に作品がどういう形であれ、表に出てくる作風が、けっこう変わったり、いろいろなタイプがあると思うんですけど。やっぱり根底には、その人間の一筋縄ではいかないところが、ちゃんとあって、その上に、いろいろな言葉やら、演出の手法やらが乗っかっているみたいな印象が、すごくあるので、そういうのが好きなんですよね。
僕はどっちかといったら人間をやりたいと思うタイプだし、僕自身、そんなに新しもの好きでもないし、奇を衒うことが好きなタイプでもなくて、わりと普通に王道のまっすぐみたいなもので、十分満足できるし、十分その奥行みたいのを楽しめるタイプだから。まずは、大事なのはそれ、大事な根底、人間みたいなのを見ていられれば、僕は何でもいいからというタイプなんで、むしろ僕は、そこばっかりになりがち。谷さんは、そこに、いろいろな演劇ならでは、演劇だから、おもしろくなるものみたいなのを、常に探しながら乗っけようとしてくれて、それは多分、自分ひとりじゃ、やらないだろうなーって思うし。だから、それをやろうとしてくれる人とやるのはおもしろいんじゃないかなーって気はある。もう一人でやっていると、本当に削ぎ落としていっちゃうからね
人間というものだけでいい?
そう、それだけあればいいんじゃないかなーって気になって。いやいや待って待って、もうちょっと観にくる人の、もっといろいろなものを楽しませてあげようという気持ちを忘れているわけじゃないんだけど。でも、意外と、これさえあればみたいな、むしろ味付けが増えたら損なうんじゃないかという気持ちになっちゃう。
本当に職人なんですね。陶芸家みたいなイメージが思い浮かびました。
あー、そう、そういう変な癖があると自覚はしているんですね。自覚はしているんですけど。

続けてきた理由

ダルカラに入られて5年経って、途中で辞めようと思ったことは? なぜ5年間続けて来られたでしょうか?
辞めようと思うのはなかったなー。どうしようというか、どうしていこうとかは、もちろん常に考えたりもしてたけど。僕、基本的に、その前にフリーになろうかと思っていたけど、でも僕はホームみたいのが、自分にはあったほうがいいタイプだろうと思っているのもあって、そのホームは自分が居心地がいいからじゃなくて、自分にとって帰ってくる場所として、やっぱり帰ってくると気づけることとか、何か、そういう話せることがある場所はあって欲しい。でもそんなの入ってみて3か月とか、それこそ1年ぐらいで出来るわけないのは、十分分かっているから、というのもあって。
最初に始めたときに、そういう場所になっていくためには、どうしたらいんだろうとか、どう付き合ったらいいんだろうとか、どう関わったらいんだろうとかを探していたし、やっているうちに、みんなのことも分かってきて、こいつらすげえなということに気付くなかで、これは得難いメンバーだとか、ほかでは得難い場所だとか自分で気付くし、自分のためになっていることに気付くし、他を見たときに、その価値がすごいということに気付くから。
だんだん、これがあるから辞めない、これがあるから続けているというよりは、一緒に育ててきているものだから、それが無くていいとなって、じゃ他に、そんなのすぐに得られるのか?と言われたら、絶対得られないから、そういう価値は懸けてきた5年、懸けてきた時間みたいな分、他に替えられないので、やっぱり、どんどん徐々に、続ける理由が増えていっている感覚ですよね。

この道を究めたい、辞めようかなと思うことがあっても

劇団自体は辞めないにしても、お芝居自体を辞めたいと思ったことは?
そんなのしょっちゅうありますね。
それはあるんですね。
しょっちゅうあるというか、お芝居自体を辞めるかどうか分からないですけど。こんなに追い詰めてやるかということを、やらなくていいんじゃないかっていうふうに。でもそれは環境やプロとしての仕事としてやるっていう重圧みたいなことが、追い詰めてるんだと思うんだけど。だから、そういうやり方をしないで、自分で自由に好きなときに、好きな感じで、もうほんと、ただやりたくなったらやるみたいな感じでやっているぐらいだったら幸せなんじゃないかって、ほんとに気楽で幸せなんじゃないかって思うときはある。
そういう意味で辞めようかなと思うことはあるし、ただ、ほかのことをやっても一緒なんだろうなって、少なくとも自分の性格上そうだし、あと仕事って、結局何やっても、そうじゃないかって気が、どうせするので、だったら少なくとも自分が理解して、確かに得られる充実感であったり、悔しさであるとかそういう、少なくともやりながら、いろいろな感情を動かされたりしていられる時間があることが分かっていることを。まだ全然足りてないです。まだ全然。ちょっと、そういう意味ではしたい仕事、出来るようになりたい仕事みたいなことを出来ていないのを自分で分かるので、どうせ辛い思いしたり、苦労したり、自分で追い詰めてネチネチやっていくんだったら、この道がいいなとは思う

自分がなりたいもの

理想としている芝居って言葉にできますか? こういうふうに演技がしたいとか。
出来ないっすけど。多分喋っても違うんだろうと思うけど、なんだろ、むしろあるとしたら、昔ちっちゃい頃、幼稚園のお遊戯会って、関係者とか自分のお父さんお母さんばかりだし、うちの田舎がそうだったんだけど、みんな家族同士も仲良くしているから、仲良くしている子が出てくると、それだけで「わーっあ」と観ているほうが湧くっていうことが、しょっちゅうあったんですよ。小さい頃は。すげえなって思っていたんだけど、子どものころは単純に、みんな喜んでくれているなって。その時は何もできないよ、覚えたセリフや踊ったりしているだけなのに、すごい、そういう空間とか、そういう人たちが幸せになっているみたいな経験は印象に残っていて。
でも、全く知らない人がさ、それこそ僕なんか福島の片田舎のふつーの、その子達を、あーっでも、子どもの力は強いから子どもということだけで喜ぶ人いるかもしれないけど。俺らみたいなおっさんが、フラッと、全然違う土地に来て、ふらっと「わー」っとやったところで、みんな「あーっ」ってなんないでしょ。普通。誰だか知らないし、初めて観るしみたいな。でも、そんな人でも出ていったら「あー」ってなったらいいなと思う。無理だけど、分かんないけど。それって、何なのか分かんないけど。みんな家族みたいな状態なのか? すごい人って、そんな感じがするんだよね。その人が出てきただけで、ちょっと「あーっ」ってなるみたいな。
そういう人を見たことありますか?
でも自分がかっこいいな、ステキだなと思う俳優さんって、そんな感じを与えてくれる。僕もさすがに母親みたいに出てきただけで「わーっ」って拍手しないけど。「わーっ」っていう気持ちにはなってるし、「ステキだなー」って思って。
どうしたらそうなれるのでしょうね。
分かんないですねー。何か、とはいえアイドルを愛でるという感じと違って、どっちかというと、そっちの例えじゃないのは、なぜか親戚連中とか、あの人たちの盛り上がりは、なんかね、ちょっと違う感じがしてて、ちゃっちゃいころの経験だから、より強いのかもしれないですけど。まあ、ある意味アイドルなのかもしれないけですけどねー。でも、そんなことが出来るとしたら、すごいなって、まあ思います。一応、なったらいいなと思って、ネチネチやっているんです。

ぶつかる壁は楽しめるほうがいい

俳優が、こうあるべきみたいな考えはありますか?
こうあるべき。こうあるべきは、うーん俳優に限らないかもしれないですけど。僕の場合は俳優という職業をやっていく上で、まあ、いろいろな人にも出会うし、いろいろな現場にも出逢うし、いろいろな作品で、いろいろなことを求められたりすると思うし、そんななかで、きっと厳しいことを言われたりすることとか、理不尽に思うような扱いを受けたりとか、いろいろなことが起こるとは思うけども、そういうことほど、有り難いと思ったりとか、おもしろいと思える人じゃないと続かないだろうな。続かないということは、よい役者にはならないから向いてないと思う。そういうことこそ楽しめる、楽しいと考えようとする。感覚として、すごいことを言われたけど「えっ、そんなの出来んの?」。すっげー怒られた「お前のは芝居じゃない」芝居しているつもりだったけど、芝居じゃない。「ちょっと待って、どういうことですか?」ってなれるほうが、きっと向いているんだろうなって気はしますね。まあ何となく、僕が考えるほかの仕事も一緒じゃないかと思うんですけど。
続けられるということが大事?
よく、いろんな現場で、あの先輩は厳しいとか、あの人は厳しいとか、あいつに対しては厳しいじゃないかとか。そんな言葉が飛んだりするけど、いつも引っかかるっていうか、なんだろ厳しいって、その人の心理というか、その人の思っている考えや信念でもって、喋ったり接したりしているのであれば、そこには何らかあるはずだからいいんじゃない。どう受け取るか、受け取る側が、この人は厳しいからとか受け取っちゃう側が損なんじゃないかなと思う。どうあるべきと言ったら、そういうことかな。ぶつかる壁ほど楽しめるほうが向いている。
例えば、会社では上司に人格を否定されたと感じるようなこともあると思うのですが、俳優さんだと、もっとそういうことがありませんか?
現場では、そういうことあると思いますよ。僕は、仕事上、そういうことにあったことないほうだと思いますよ。そういうのは飛び交うし、みんな必死だったりするので、それを、どう受け取るかですよね。よくお芝居が好きで始めた理由、芝居が好きですみたいなのは、よく聞くし、簡単に言えることだから言えちゃうと思うんだけど。ほんと好きなやつってね、多分、そういう理不尽なことやられても、ほんとにそれが好きだから、人格否定とかされてもまあいいとして、それって今必要なことなの?自分の芝居が良くなることとか、この作品にとって必要な部分はどこ?それを知りたい。みたいな気持ちになると思うんですよ。
でも否定されたことのほうが強いってことは、多分その時は、自分自身のほうが好きなんじゃないかって、僕は思っちゃう。それだとキツイこといっぱいあるよって思っちゃう。どこかで越えられればいいけど。資質とかの問題ではなくて、そういう問題のほうが続くから、まあ好きもね、だんだん好きになっていたりするので、何とも言えないですけど。どっちにしろ、続けてないと転がらないので、続けられるって才能だと思いますよ。単純に何でもいいから、続けられるっていうのは。

これが演劇だ

今回の作品は「演劇」という題名ですが、その題名を聞いたときどう思いましたか?
やってくれたなっていう、やりやがったなみたいな気持ちはある。それをタイトルにしちゃったかという衝撃はありましたけど。まーあー相当、やる気を感じるっていうか、あー意気込みみたいのを、めっちゃ感じるなというのを、まず思いましたね。これ、ただごとじゃねえぞという、このタイトルをつけた以上、やっぱり逃げられないので、演劇とは何ぞやみたいなところから、それを目にする人、聞く人が、えっ、演劇っていうタイトルなの?演劇をするんでしょ?ということだから、僕らが見せるものは演劇でなくちゃいけないということなんで、これほど解釈の広いものないじゃないっすかというぐらい。
これ聞いた話なんですけど、何かね、ドイツのとある演出家が、集団で、こう何か亡命だかした100人の人たちに向かって、いま預かるところがない、行ける場所がないみたいなそういう人達に、住めるとしたら、どんな場所に住みたいの?って聞いて、その家をつくって、みんなに住ませるっていうことをしたらしいんですよ。それを演劇だって言うらしく、そういう行為が。ちょっとその、国は受け入れない、社会は受け入れられないのに、そういうことをして、そういう場所を与えて、そういう受けいれる場所をつくって、それをずっと支援するみたいなことをする。それに対する反発もあったり、賛同もあったりていうのが世の中に大きい影響を与えていく。それが演劇、みたいなことを言ってたらしく、そうなっちゃうと、ほんと、もう「演劇」というタイトルを付けたけど、幅広すぎるだろうっていうことなんで。
大原さんにとって演劇とは何ですか?
僕にとって演劇は、ちょっと実はいまの話に類するところもあって、僕にとっては、自分がいま生きている世の中のことに繋がるということ。自分のことを考えるということは、少なくとも自分が生きている世の中のことを考えざるを得ないでしょう。そこから切り離して存在できないから、考えちゃうじゃないですか人を見て、人間を見て、人間のことを感じて、自分の想像で、その人物が膨らむとか、それって自分のことを見返していることに近いので、多分きっと自分はどうだろうとか思っちゃたりしてる。
芝居をみると、それが良い作品であるほど、きっと劇場をでたときに、世の中違って感じるっていうか、何かが変わっているみたいなことが起きている。ってことは、確かにそういう意味では世の中に、社会に影響するっていうということが演劇、みたいなことが、当たらずとも遠からずみたいな、まあ発想は近いのではと。さっきの話を聞いたときは、そこまでぶっ飛べないなーみたいな感じで聞いていたんですけどね。僕にとっては、観に来るまで、演劇を観る前と観たあとでは、何かが変わるっていう、変わって感じるということが起きるっていうことが演劇だと思うし、それってやっぱり、世の中とちゃんと繋がってないと起きないんだろうなって思います。

観客は味方

観客というのは大原さんにとって、どういう存在ですか?
うーん、基本は味方だと思っている。一緒の空間にいて同じ時間を体感する仲間なので、そういうふうな存在として、そこに居てくれるからこそ演劇っておもしろくなると思っていて。
「観客が入って演劇が完成する」という言い方をよく聞きますが、俳優がどういうふうに感じているかが分からなくて、知りたいのですが。
僕たちはお客さんに教わっているところが、けっこうあって、自分たちがやりとりしている所の、お客さんの空気が変わる瞬間とか感じるし、お客さんが何を想像している時間帯が分かるときって、やっぱり空間自体が演劇をしている瞬間になっていて、みんなが似たような、みんなが近しい想像を湧かせてる時間帯が生まれた瞬間って、強力なエネルギーを感じられて、空気とか、それが起きているということによって、僕らも、それで教えられて、次の言葉を届ける、間とか届け方とかに影響されるているんですけど。
みんなが、そういう見方をしてる時は、みんなが観て考えて想像してくれたことが、空気として生まれてくる。なので逆に、例えばわざと、ずっと斜に構えているとか、いやいや観てます的な、そういう雰囲気の客席をつくってみたら、演劇を楽しむ場所としては相当残念な場所になるなと思うんです。そういう意味で、お客さんは味方であり仲間な気はするし、だって、そもそも演劇やるぞっていう、そういう場所じゃん劇場って。それ以外で来ないでしょ
そうですね、観にきているんですからね。
そうそう、観にきているんだから、わざわざ。っていう時点で、そうとう味方なんですよ。こっちが出向いていってやっているわけじゃないし。わざわざ足を運んでくれた人を楽しませるためにも、みんながそれを望んでいるというか、そういう体感する時間を望んでいるわけだから。
ウィトゲンシュタイン新潟公演って、すごく客席が良かったなあと思ったんですけど。
はははははー。
そんなことなかったですか?
いや、やっぱり、ちょっとずつお客さんも違うし、よく役者も違うとか、毎回違うとか言うように初日と千秋楽とみたいな。それは細かいこと言ったら、毎回、違いますよ。だってお客さんも違う、お客さんも参加しているから、僕たちだけの問題じゃない。
すごくみんな観たがっているという感じがしたんです。
そりゃあ、やっぱり、その座った時点で、強力な味方であり仲間になっているということなんで、反応はすごい。お客さんには何かをしてるって意識はないと思うんですけど。一言発するごとのその聞き方とかで、空気は変わっているんで、それを一人の、例えばものすごいコアな僕のファンみたいな、僕が喋るときに、その一人だけが猛烈な聞き入り方みたいのをしているのと、もう全員が期待している、もう超人気、それこそ出てきたら拍手したくなるような人が喋りだすときに、全員が聞き入ってるのと空気は違うでしょ。けど何を言わんとしているのか伝えるための空気となるとそういうのとは全然違う。その時の空気って、お客さんが何を想像してて、人物や話を追って、知ろうとしたり想像しようとしてる空気で、それによってこちらがやれることも違うし、やらなきゃいけないことも変わってくるっていうのがあるので、お客さんも作っているというのは、そういうことだと思います。

人間は分かり合えない、でも同じことを想像することはできる

社会にとって演劇が必要な理由は何だと思いますか?
演劇のおもしろいところって、すごく想像力を要するというか、想像力によって面白くなる作品というか体感できる作品みたいのに出会うこと。さっきも言っていた、みんなが一緒にひとつのことを想像したりとか、もう大きな劇場なのに、みんなの集中とかがひとつになったりする瞬間って、それは観ているものから想像しているから起こるもので、逆に想像がいらないものを、いくら見せられても実は起きない。例えばおむすびに対して「おむすび」と言われて「わー、おむすびだー!」にはならないでしょ。「うん、おむすびだよね。うん、分かる、分かる。」っていうぐらい。想像せざるを得ないものを見るときって、みんなが見るとき、見える瞬間「あっ」と感じたときに、ものすごい、その空間が動くというか体感があるみたいな、その体感を経験すると何て想像力っておもしろいんだろうって思ってもらえると思うんですけど。その力が僕は社会にとってもいい効果を与えるんじゃないかと、常々思っていて、それは通常の、人との会話のやり取りから始まって、ほんとにこのコミュニティはどうあるべきなのか、それこそ遠く離れた海外での出来事について、自分はどうしたらいいのであろうかとか、何か上手くいか せる手段みたいなことを、すごくとても豊かに考えられるということにつながると思う。
その、自分ひとりで使う想像力でしかないときと、みんなでそういうことを経験したことあるときの想像力って、僕は質が違う気がするんです。僕は絶対人間って分かりあえない、分かり合うということは無理だと思っていて、それはどんなに好きな相手で、長く一緒にいた人でも分かり合うっていうことは妄想でしかない。でも同じことを想像することは出来ると思うんです。分かり合っているのではないかと、想像することは出来るとは思うんです。でもそれって知らない誰かと同じ想像をした経験したことない人って信じられないと思うんですよ。「僕は君のことを分かっているよ」「あなたのことが分かった、分かっているよ」って言われても、それを信じられないと思って。ほんとの意味で分かりあえることはないと思うけど、別の人間なんで。でもそういう瞬間もあるかもしれないと信じる力は、そういう想像力を体感したことがないと、得られないと思っている。演劇には、けっこう如実にその体感を起こせる力があったり、そういう可能性がいっぱいある媒体だと思うので、常にそういう場所であってほしいし、そういうことが起きる作品に関わりたい、そういうところに必要とされる俳優であり たい。みたいなこと思う。そう、僕はとっても。
特に今って、顔を見ずに繋がられることがたくさんあって、とてもステキで、すごく便利なことだと思うんですけど。そのぶん、そこに必要な想像力というのが増えている気がして、難しくなっている。簡単だからこそ、実際顔を合わせて話さなきゃいけないときにするコミュニケーションと同じように、相手のことを想像するとか、相手の背景を想像する、生きている世の中を想像することができないと、無意識に相手が生きている人間であることを忘れてしまう。そういう想像力が人と人とのやり取りで大切であることは昔から変わらないだろうけど、それをないがしろにするのが簡単になってる。それでも生きていけるから。でもそういう傾向がゆきすぎる結果、たぶん、あんまりよくないことが起きやすくなるっていうのが、僕の単純な体感で。そうならないために演劇が必要って気持ちは常々あります。
脚注
※1 大原がやりたいことを究める大原のための稽古だが、広く仲間を募集している。
※2 Theatre劇団子