DULL-COLORED POP

vol.17『演劇』俳優ロングインタビュー:中田顕史郎

ダルカラでの一番の思い出

突然ですけど、ダルカラ第一期の第9回公演「プルーフ/証明」の大楽、拝見しましたよ。
あぁ~、サンモールの? あれをご覧になりましたか。全体として、演者にとって恐ろしい公演でしたけどね。でも大楽は、本当に面白い公演になりました。あの経験は僕の演劇人生でもなかなか出会えない公演で、ああいうのができるんだったら、是非またやりたいなと思います。本は素晴らしい。翻訳も、素晴らしい。演出プランも素晴らしい。でも、あの時の演出と主演は頭がおかしいので(笑)
皆さん、そうおっしゃいますね(笑)
そういう座組での舞台というのは、全体としてとても緊急事態が訪れるんですよ。稽古でも本番でも。「でも何とかしなければならない」と思うわけですよ、出演者、共演者として。こう言う状況というのは、なかなか普段の舞台で出てこないんですよ。っていうか、どんな作品でも、大変な状況は訪れます。それはわかってる。対処する。自分に足りないものがあれば研鑽する。でも、そういう想定の枠組みをはるかに越えてる緊急事態はなかなかお目にかかれない。火消しをするべき役割の人間がそこら中で放火してる、みたいな状況ですからね。谷くんはそういう性向がありますから。そんでもって、それに呆れながら、それでもがんばって火を消そうとする主演がいるんじゃないくて、演出家に負けじと思いもよらないところに火をつけてまわってやる!みたいな主演だったので、もう江戸中が火の海に! みたいな状況でした。 終わってみれば、振り返って「あれはすごい公演だったね」と言えるんです。
でも、作ってる最中はわかんないですよね。どんな公演になるかなんて。その時その場は本当に緊急事態なので、ある種のインプロのような状況でしたね。だってね、付け火をした本人の意思を越えて火事は広がってきますから、もうとにかく、それに対処しつづけるしかない。本はあるんです。演出の目指す方向もあるんです。役者もそれを捉えようとしている。では、そこに粛々と向かって行くのかというと、ちっとも。「し」の字もなかった……。俗にインプロと呼んでいる様々な公演も、やっぱりある種の型のようなものが出来てしまうんですね。「型」そのものは悪くないですよ。ないと困ります。でも、「演劇」って例えば彫刻作品のように絵画のように、個体ではないですよね。それに対して、「演劇」は流動体です。もちろん、印象派の画家が死ぬまで、キャンバスを塗り続ける作品、あれは個体であって、流動体です。完成をさせようとしているのですが、未完成です。「演劇」はそもそもがそういった感じを内包せざるを得ないような気もします。どんな公演にあてはまるというわけではありませんが。
うーん、なんていえば言えばいいのかな。だからあのようなですね、言葉にはしにくいんですけど、緊急事態があって、「焼け死ぬかも」とか「結局もうどうなるのかわからない」思う気持ちをもって公演に突入して、そういう圧力のもとではじめてK点越えみたいな瞬間が訪れるのかもしれませんね。しかもそれが良い方向へ化けてゆく必要があるわけで。「プルーフ/証明」は、もちろん本もあるし稽古もしてるんですけど、だからあの公演になったわけではなくて、先ほど申し上げたような江戸が燃えている(笑)みたいな、緊急事態があって、それに対して、キャンパスを塗り続けるというチョイスを、演出も役者も選択して、振り返ってみれば、結果として良い方向へ向かった稀な公演だと言っていいんでしょうね。出てる本人が言うとバカみたいなんですけど、そういう公演にしようというより、そういう時間を経験できた公演でした。

ドラマターグ

中田さんは、ドラマターグっていう肩書きもありますよね。ドラマターグっていうのはどういうものなんですか?
まず、最初に、今回の公演「演劇」では、僕は出演する役者の一人です。ドラマターグは担当してませんから。あと、僕ほっとくとずーーと喋ってるんで、止めてくださいね。
(笑い)
えーっと。ドラマターグという役割について聞かれる事が多いのですが、なかなか歯切れよく一言で御伝えする事ができません。演出家が10人いれば10種類の現場があるように、ドラマターグもさまざまですし、その最大公約数を説明すればいいのかもしれないのですが、残念ながら僕は他のドラマターグのかたの実態がわからない。自分のホームページ http://www.nakata-kenshiro.com/ に書いてある事とかぶっちゃいますけど、えーっとですね。
ドラマターグという職種があったことを知ったきっかけは、2001年に、オランダでコンテンポラリーダンスの作品作りの依頼があったんです。これは振付家が出演もするトリオの作品で、振付家の彼にとって初めての自分の冠公演だったのですが、例えば、「最終的には自分がほぼ出ずっぱりで踊るので誰かに見てもらう必要がある」とか、「作品の構成要素としてのピースは大丈夫だけど全体の構成をどうしよう」とか「照明デザインについて断片的なアイデアはあるけれどもスタッフとのコミュニケーションが不安だ」というような様々な相談をうけました。ですから、最大公約数的に言うと「相談相手」ですね。ただ、あんときは彼がまだ学生の頃からの作品作りの付き合いがあったのと、単純に来月、アムスまで来てくれって言いやすかったんだと思います(笑)招聘してくれた彼自身、ドラマターグっていう単語をしりませんでしたから。
で、その年の秋に1ヶ月、在蘭して作品をつくったのですが、それが好評で翌年グレードがあがった劇場でまた新作をつくることになって、また1ヶ月、今度はデュエットの作品をつくりました。公演を控えてクレジットをどうしようかということになったときに、一年目が「special thanks to」だったので、今回もそうしようかという感じで劇場の食堂で喋ってると、そこの劇場の芸術監督が「おまえのやっていることはドラマターグっていうんだ」「英語をもっと上達してくれたら常設で頼みたいくらい良いドラマターグだよ。」と言ってくれたんです。そこで初めてそういう職業があるんだということを知りました。
「常設で頼みたいくらいだよ!」ここは是非強調しておいておきましょう(笑)
はい(笑)僕はそもそも「作品を作る」ことが好きなんでしょうね。もちろんドラマターグは演出家の領分を犯すためにいる訳ではないですよ、全てのジャッジは演出家がおこなう。ただ特に、作・演出を兼ねて主宰もやってるっていうような場合だと、やはり相当な負担が個人にかかります。劇団であれば、そこは分散される部分もあるかもしれないけど、でも劇団であるが故にさらに負担がふえるときもあるでしょう。そんなときに、気軽な相談者としていわばアーティスティックな倫理や責任を共有する事によって、負担をへらす役割。さらには未達のまだ見ぬ作成中の作品に対して、その達成するイメージへの信念とか情熱みたいなものを持ち続ける。だってその反対って、ほっといても、すぐ出てきますからね。失敗、おそれ、あきらめ、保守保身みたいなもの。ま、これは信頼関係ができている、あるいは相性が合うだろう方に雇われてる時にできるあり方ですけど。あとは、そのときどきのカンパニーのメンバーシップ。
なるほど。
例えばドラマターグとしての「相談」っていうことについて言うと、なんか戦場の軍師が「献策」する感じに思うかもしれませんが、そういうことも勿論しますけど。でもそれだったら、ベテランの俳優や腕利きのスタッフは、相当作品に重要なアイデアを提出する事ができると思うんです。僕に限られたことじゃない。ていうか、僕より鋭い人、適確な人、あと落ち着いてる人(笑)、いっぱいいますから。
これは例えば話なので、正確な実態ではないですが、ビートたけしが必ず高田文夫を連れてきてラジオをやってました。高田文夫は一見あいの手を入れているだけだけだど、とても重要だと思うんです。作品を作ってるときの創造者はめちゃめちゃ孤独ですから。誰が聞いてるのかわからない深夜ラジオのDJみたいなものです。そのDJブースを創造してみてください。投稿のハガキもない、かける音楽もない、朗読する本もないっていう状態でほったらかしにされてるところで作品を紡ぐときに、横で聞いている人がいる感じ。 まあ、餅つきの力水をつけるヒトですよね。だいたいおばあちゃんが巧いんですけど。あーそーか、とかいっていいながら話をきいてくれて、たまーに自分の昔話をして、それが今の話となにか関連あるのかな?とか思いながら話してるといつの間にか自分で自分の言ってる事のよしあしみたいなのが見えてくる。おばあちゃんは黒田勘兵衛的なことは言わない(笑)そして、餅ができたら、おばあちゃんは実はじゃじゃーんと、知恵の神様の正体を、あらわさない(笑)
なるほど。
なんだろう、浮かし彫りみたいな感じです。そのときどきの中核は、当の本人が、あるいは当のカンパニーが探り当てようとしている。僕も同じくそうしても、探し手が一人ふえるだけです。違う角度で見るっていう単語だと、あ、そうですかで終わっちゃうんですけど、違う角度で見て僕が見つけるというよりは、それじゃない。それじゃない何かを探してるっていうことをくっきりさせる。捨てられる、採用されない何かを話してることが多い。それはわざとそうしているわけではないですが、他人が何考えてるかはわかんないですからね。だから今もそうですけど、基本、僕現場ではよく喋ってますね。十でも二十でも捨て案を積極的に喋ってると、他から、優れたアイデアが「ぽん」と出てきます。これは体験的にそうですとしか言いようがない。100点満点を「要求された瞬間に言え」っていわれても、演出も役者も、その場ででるわけがない。それっぽい体裁はとるかもしれないけど、体面や立場もありますから、なんか言わなきゃいけないし。
でもね、有象無象が散らばってるほうが、つまりは失敗が体系的に許容されてる方が、創造しやすいんじゃないかと。個人の相性ももちろん必要なんでしょうけど、体系的にそういう第3者的な責任の範囲の人をおいておくと意外とものづくりに寄与するなということが、ドイツ圏で認識されたんでしょうね。フランス人とかラテンな人なら、体系的に導入しないような気がする(笑)観念的にではなく言えば、仕事としては「演者」でも「演出家」でも「演出助手」ではないんです。だから、そういう観点から言えばいらないっていうか、なにやってんの?ってことになりますよね。
あくまでも僕の存在が演出家やカンパニーの天井をさらに突き抜けさける、ポテンシャルをひっぱりだす、あるいは信念を強化する、そういう存在でなければならないと思ってやってます。でも、多くの演出家は、最終型の図柄が見えているので、いや本当はどうかわかんないけど、そこをシェアしてもしょうがないし、立場と立場で団体は秩序だっていくという考え方のほうが一般的でしょうから、その場合、ドラマターグは別にいらないと思います。邪魔だって感じるんじゃないでしょうか。あと、いわゆる文芸部的な役割だとか、もっとひいたところでの戦略的な役割みたいなのは、今喋ってる役割の範疇には入りません。それはまた別の話です。
なるほど、そろそろ(笑)
あ、喋りすぎですね(笑)そして、話せば話す程、なにしてるかわかんないし、これ読む芝居やってる人にいやがられるんだろうなあ(笑)つらい。

小劇場について

今の時代に小劇場の存在意味とは?
どうしても、中劇場以上だといろんな条件や規制をクリアしなければならないんですね。それは、ビジネスですから、興業的にも成功させないといけないという現実が大きくありますし。もちろん、小劇場というのはビジネスとして成立しなくていいのかといえばそんなことはもちろんないんですけど、みんなギリギリのところでやってますけど。じゃあ、そのかわりになにを獲得してるのか。小劇場っていうのは、けっして演劇界の中心ではないですよ。周縁です。でもどんな事でも、ムーブメントは周縁から起こると思うんです。ものすごくわかりやすく言えば「試してみる」ことができる。小劇場は真に自由で新しい発想が生まれやすい、思考実験場であると思うんです。
はい。
パラダイムシフトでも相転移でもいいですけど、イノベーティブなものってどこから生まれるか。周縁からだと思います。「真ん中」の試作は「改善」になっちゃうことが多いでしょう。空飛ぶ車が作りたい。車は空飛ばない。おしまい。ま、もちろん企業体もそこに気がついて、しっかりした組織のまま、つまり「真ん中」がイノベーションを起こすのはどうするっていうのやってますけどね。でも空飛ぶ車はないんじゃないかな。飛行機はつくるだろうけど。
なるほど。
質問からは少しそれますが、さっきのドラマターグの話とも似てるんですけど。芝居って結局、脚本とか演出とか役者とか、それぞれの要素が出会う場所が稽古場が全てなんです。そこのエネルギー値みたいなもの。これが肝なんだと思うんです。そこをうまく展開するというか、ただ表現の表現を磨くだけではなく、社会を変える。っていうところまで目線を持つ。革命ではなくていいから。例えば、少しだけよいものになるようなそんな作品。ぐらいのところまで、目線があるといいなと思います。で、そういったことが周縁の方がおこりやすい。
はい。
それ意味あるの?っていう質問はすごく適確なようで、なんにも言ってないと同じですよ。永久に同じ質問してられる。意味あるかどうかは、そんときはわかんないですよ、結論的には。でも意味があると思ってやってるんです当然。でも、ビジネスの枠組みの中で、意味あるの?って言われれば、これこれこういう意味があります。それでほらこうなりました。エビデンス出せ。はい、これですみたいになりますよね。だから、それだけでも小劇場の存在意義はあると思いますね。いままでの基軸とは違う、なにかがひっくりかえるようなことが出てくる場所です。ただ社会に与えるインパクト。これを考えると、それをひろげていくためには、小劇場にとどまらず、そのようなムーブメントを大きな場所においてもできるようになればいいなと思いますが。
そうですね。
なんにせよ、そんな作品を作るときに、稽古場に必要な人間でありたいです。科学は真理、芸術は美学。だから、所詮、最後は好き嫌いの世界になってしまうから、そんなこと考えてもしょうがないという向きもいるのはわかるけど。マイナーな考え方でしょうが、なんで、この芝居をやるのかっていうのを、観客にとっての「なんで」を忘れちゃうとつまんないものになるなと思います。

ダルカラについて

中田さんにとってダルカラとはどんな存在でしたか?
一つの作品をピックして全体をおしはかるよりは、積み重ねて見てゆくのが良いと思いますね。今は作品ごとの振り幅が、広い時期なんだと思います。そしてそれは、劇団の自分探しみたいな事でふらふらしてるのではなくて、すごい力で枠をあっちこっちに広げてるイメージ。だから、まさに、今回のタイトルを「演劇」と銘打ったのはなるほどなと思います。スポーツに例えたら、1試合みるだけでは、いったいどういうチームなのかわからないですよね。だから見続けると面白いと思います。もちろん、それは、いつ見ても求めているものを提供してくれる料理店の良さとは違うわけですが、でも今日はどんなおまかせが出てくるのかというワクワクがあります。
なるほど。
もう少し具体的に言えば、第二期のダルカラは実験的な意味合いの濃い作品が多かったと思います。谷さんも忙しくなって、アウェイの現場が増え、そこでは割と縛られる事も多いでしょうから、ホームであるダルカラに帰ってきたときは、すごく実験的はことがやりたくなるんでしょう。はじけっぷりがすごい。やるとなったら振り切るんだというのは正しい姿勢だと思いますが、観客のことを考えるとそこまで振り切らなくてもいいかってなっちゃうことのほうが多いと思うんですよ、普通。だから挑戦的だと思います。商業のプロデューサーなら、それはやんなくてもいいんじゃない、っていうか、そもそもその演目自体どうなの?って言うような作品もあると思うんですね。お客様にしても谷さんの別の現場の作品にふれて、そのときの興味を惹かれた理由で、ダルカラ見に来ると、なんじゃこりゃになることもままあると思います。
でも、第一期ではウェルメイドな作品も作っていたんですよ。だけどね、名は体をあらわすで、ダルカラーだけど、ポップなわけですから、もうそこはその不安定な振り幅を飲み込んじゃえば。まあ、寿司食べにきたら、蕎麦がでてきた。蕎麦ならいいんだけど、かなりエスニックな料理がでてきたと。食べると美味しいのかもしれないけど、店が居抜きでかわってて、聞いた事ない音楽が流れてる(笑)そのときどうするかっていうと、なかなか人はびっくりしちゃうんだろうと思いますけど。でも、それでもうまい!っていう料理を作ろうとしてるんだと思います。
なるほど。そして、今回は久しぶりの出演ですよね。
僕はダルカラが好きで、出ちゃうと見られないので出演するかどうかは少し考えましたけどね(笑)かつて出していただいてますが、それは第一期の休止公演です。それ以降、自分の年齢考えても、もう劇団の公演には出る事はないだろうと、勝手に思ってました。まさか、第二期の休止公演にでると思わなかった。
中田さんでると、休止公演になるって書いときます(笑)
それは書かないでいいです(笑)それはとにかく、必ず第三期のダルカラはやってくると思います。谷さんにとって、劇団での思索は、自分自身の演劇作品のインキュベーションの場所になっていることは間違いない。それがなくなって、アウェイだけで、やり続けるのはもう、どこかの芸術監督になるしかないですね。それはそれでまた見てみたいですが。作品制作という点だけでいえば、まだしばらくは、本当は劇団があったほうがいいわけですから。じゃあなんで休むのかといえば、それはそれで、最初に話したような、ビジネスとしてというようなところが大変だからだと思います。小劇場中堅の軸みたいな劇団ですらそうなんですからね。そういう意味ではまさしく「周縁」「ドブ板育ち」っていう気分ですね。

第17回公演について

稽古中最後に稽古中のこの「演劇」という公演についてお話しください。
うーん、そうですね。まず谷さんはやっちゃいけない事はないと思っていると思う。だからこそその現場にいられるという事は、とても創造的な場面に立会えるということで、「面白そう」という思いが直結して芝居を作れる喜びを共有できる気がしますね。それから、劇団員それぞれとまた現場をご一緒できるのが嬉しいです。全員素晴らしい人ばっかりですからね。一人一人紹介したいくらい。そして、客演陣、これもすごく魅力的ですよ。もう隅っこで見てるだけでもいい。稽古が本当に楽しみです。それから今は1回目のインタビューのころと違って、紆余曲折ありながらも、だいぶんに作品の芯がはっきりしてきたように思います。
それはどういったところでしょう?
谷くんは、作・演出以外にも翻訳家やそしてプロデューサーの側面も持っている人で、人によって、どこを一番評価するかが当然ちがうと思います。今は劇団外の仕事もふえているので演出家としての仕事ぶりや、賞ももらっている翻訳家としての実力が高く評価されてるんじゃないでしょうか。でも、僕にとってはまず作家、そして翻訳家、つまり「書く人」としてとても素晴らしいと思っています。他がすばらしくないわけじゃないですよ。もちろん! でも作家も、これまた十人いれば十人の癖があります。そして作品数がある程度そろっている人はそれを通してみていくとやはり特徴がある。とりあげる、モチーフというかテーマとかだけに注目してもそれはあらわれます。そのへんもプロデューサー気質というか、谷くんは、意図的に自分でいろんなところを掘ってると思います。
意図的?
そうです、そうです。なんだろうな、野球で言えば「セカンド」守らせたら、もう一級品!みたいな職人タイプとかそういうんじゃ今はないと思います。とりあえず全部のポジションは守ってみようとしてるんじゃないですかね。作家人生通して。オリジナリティをうんぬんするタイプじゃないと思います。でも、そこはまったく気にならない。オリジナリティがないと言う意味ではないですよ。多分、まず最初の地図の広げ方が大きいというか。でかい図書館が彼の情報センターに付属していて、とにかくびっくりするほど広くレファレンスをピックアップして、そして生来個人的に深く愛してるものとミックスアップするセンスがいいんだろうなと思う。いろんな素材をマッシュしたスープはおいしいけど、もう素材がわかんないですよね。人参ぐらいはすぐわかるけど、このつぶっとしてるのは何?レンコン?みたいな感じだと思います。
あー。違うな、逆か。だから、まず深く愛してるものがあって、それに対してどう料理するかといったときに、仏蘭西料理に和食に、エスニックも!とかそういう感じで、文献をあさり、料理教室に通い、アウトドア料理なんかも体験してみる。料理人もやれば、もちろん食べ歩きもやる。でもそれは、一番好きなラーメンをつくるため。とかそんな感じなのかも。それを個人的に研鑽したり、劇団という仲間とともに稽古場で試したりしてるのかなあ。でもずっとラーメン屋かというと、そうじゃなくてダルカラ料理店っていうことなんでしょうね。 まあ、そういう意味では作品をみたとき、一見、なにがしたいんだという感じがあるかもしれないんですけど、通してみてれば、やっぱり浮き上がってきますよ。例えば、彼は実在の人間をモデルに作品を作っているように見える事が多いと思いますが、別に人物評伝をやりたいわけではないんだと思います。ですよね?
いや、わかんないです(笑)
そりゃそうですね(笑)あとはもちろん、彼の人生、あるいは彼の属している世代や社会、文化、社会風俗、そういったものと密接に戯曲と作品はからんでますから。そういう意味では例えば、「河童」とかは、すごいことやろうとしてたんだなと思います。ミュージカルの色が強いから、わかりにくくなっちゃってるけど。でも芥川龍之介の河童をミュージカルっていうだけで、充分、「ダルカラとは何か」の答えにはなってると思いますね。ま、生来的な照れ屋で照れ隠しがオフェンシブになるから、余計、観客には真意が見えにくいのかもしれないけど。多分本人はダルカラのダルのほうを深くおっかけはじめるとキリがないし、見せ物にならんという意識があるのかもしれないですね。演出、プロデューサー的には。だって、太宰、芥川、漱石って。ねえ? 夏休みの作文コンクールですよ。普通にやっちゃうと。
でも実際芝居見た人には、作家の人生や作品の内容をかいまみながら、今の自分のことを考えるでしょう。まあ、いっちゃえば、人間、昔も今もそんなに悩んだり、考えたりすることの種類が増えてるわけじゃない。みーんな、むかしっから同じような事で、ぐるぐる回ってるハツカネズミみたいなもんです。ですから、ギリシャ悲劇でも、シェークスピアでも全然見てて楽しいもんな。そうだ、直感的に感じるのは、彼はシェークスピアの徒だなって思います。彼の同年代で正面切ってやってるの、彼だけじゃないかな。全然関係ないけど、僕は彼ぐらいの年の時には、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのキチガイだったんですけど。彼の基礎、というか戻る場所、どんなときでも基本になってる一つはビートルズ。そういうところにもあらわれてるなって思います。わかります?
いや、わかんないです(笑)
そりゃそうですね(笑)話が迷走してるな……。ちょと、戻しますと、今回とりあげてるモチーフはものすごーく簡単に言うと「恋」と「仕事」といったところでしょうか。エピソードではなく、正面から「恋」をとりあげてるのははじめてじゃないですかね。いままで短編では「恋」をとりあげてると思いますけど、あれもまあ「恋」というより「自分」ですから。もちろん現段階での、ダルカラでの作品ですから、「恋」といっても、思いっきりひとひねりしてとても純化されたカタチで提示されていると思いますけど。
それから先ほど、第2期は実験的といいましたけど、今回の作品はその集大成ではないでしょうか。いろんな文体、いろんな形式・様式、それらをごった煮ではなく、まさしくダルカラ風にバチっと仕上げている、そういうホンになってると思います。同じ趣向をもって、そこに演出が施されるわけで、そうだな、舞台が好きで、ずーっと舞台を見ている観客にとっては、とても、楽しめると思います。もし、今回この作品で初めて小劇場を見るお客様には、その「自由」「気持ち」「出現」「在・不在」「時間」「空間」そういったものを、こんな単語じゃなく(笑)、わー、こんな風にできるんだなっていう驚き、まあ、ワクワクですね。それを持って見る事ができると思います。なんていうんだろう。お話を追っかけるんじゃなくて、事件を横で体験する感じ、演劇特有の、コンテンツを見ているだけにもかかわらず、明らかにお芝居にもかかわらず、遭遇する感じを体験できると思います。ただ勿論、好き嫌いはあると思いますけどね。とにかく話の展開だけをおっかけるのはもったいないです。それじゃ夏休みの宿題で、感想文書く時にあらすじを丸写ししてるのと同じ。
なるほど。
あと、今、最終的にたどり着こうとしてる場所が、ちょっとややこしいというか。それこそプルーフのロバートに聞いたらすらすらおしえてくれると思いますけど「ない」ことを証明するむつかしさといいますか。「ある」ことを証明することはできる。「ある」ところの「それ」を提示すればいいわけですから。でもでも、「ない」ことを証明するには、いわば浮き彫りにするしかないんです。
いやあスカッとした!っていうようなエンタテインメントな公演は当然、「なにか」を提示するわけですが、今回はそうではない「苦さ」が提示されます。でもそれは実は表面上のもので、その苦さとはなにか。主軸が発する最後の台詞かどうか、わかりませんけど、とにかく、彼の生き様。むしられ、なにもなく、信じる物もくだけちって、それがむしろ当たり前の時代。何もすることがないという提示に驚けた時代もすぎて、なにもないのが当たり前、それを遊ぶことすら許されない。その中で、どうやって「立つ」か。それを説明するために、そうではない人物達が多数配置されています。そして彼らに影響を受けざるを得ない人物がビルドゥングスロマンすら描けない時に、何をするのか。いや、「何をするのかすら規定されている」わけなので、そこに見せるものとは何があるのか。
先日、当の出演者と話していて、僕はそこには「丸ごと引き受ける覚悟」しかないんじゃないか、みたいなことを言ってたんですけど。今の時代だんだん、普通の人にとってはそういう環境になってますから。土下座するにも、熱い土下座もあれば、へつらい土下座もありますが、覚悟の土下座みたいなことですかね。もう何言ってるか全然わかんないと思いますけど。
ご自分の役については?
いやあ、一切、今コメントしたく無いですね(笑)したくないなー。
(爆笑)
僕、今年50歳になるんですけど、同級生とか呆れて爆笑してくれればいいんですけど、スレスレです。今のままいくとなると、あんなものやこんなものを従えて、あんな単語を、絶叫するという……なんなんだろうか。まあ、谷のホンですから、あ、呼び捨てにしちゃった、彼のホンですからね、なにがあってもおかしくないんですけど。近所の土管にすわっているキリストおじさん。って彼が前にイメージを言ってましたけど、もうそれはホームがレスな賢者っていう。これ、20歳のときにやった役柄と一緒なんです。どういうことでしょうか?
いや、わかんないです(笑)
ですね(笑)なんだ、このパターン。体力的なものも不安ですしね、ステージ数多いから。もう差し入れをセサミンとコンドロイチンとマヌカハニーに限定したいです。あとアミノ酸。でも多分、もうこういうの打ち止めになるかもしれないから、生涯最後だと思ってやろうって思ってます。来年ぐらいやってるかもしれないけど。こういうのって続くから。
いいじゃないですか(笑)
続きませんように! でもまあ、彼の一種の愛情を感じますけど。共演者に迷惑かけないようにしないと。とにかく、もしかしたら、最終公演になるかもっていう劇団員たちの想いをなんとしてもバックアップしたい。彼らが悔いの残らない公演になるように頑張ります。
わかりました。ではそろそろ。
あ、最後にいいですか。あとこれも個人的なあれですが、王子小劇場で再びやる日がくると思ってなかったので、感慨深いです。劇団時代がおわって、路頭に迷ってた頃(笑)、出会った劇場で、その頃の劇場職員のメンツは本当におもしろかった。今はみんないらっしゃらないですけどね。ネーミングライツが売れたそうで、王子小劇場の名前でやるのは、ダルカラの公演が最後だそうです。そういった意味でも感慨深い。 とにかく、みーんなひっくるめて、がんばりますので、どうか劇場に足をお運びください。よろしくお願いいたします。